1990年代とストリートカルチャー。そして、青文字系イベントの創出へ
「東京生まれのいちばんの利点は、憧れないことかもしれませんね。もちろん、ミーハーな部分はありますよ(笑)」
現在42歳、生まれも育ちも東京。中学生の頃から渋谷や原宿に遊びに来ていた中川氏にとって、このエリアは放課後や休みの日に友人とサクッと遊びに行ける、日常の延長にある街だった。聞けば、幼稚園から中学までは、自由な校風で知られる私学の和光出身。同校は、小沢健二や小山田圭吾などのミュージシャン、現・C.E(シーイー)のデザイナーであり、「ア ベイシング エイプ(A BATHING APE®)」や「グッドイナフ(GOODENOUGH)」のデザインに深く関わったスケートシング(SKATE THING/スケシン)、中川氏の下の世代ではオカモトズ(OKAMOTO’S)など、多くのカルチャーヒーローを輩出してきた学校でもある。
そんな環境で10代前半を過ごしていた中川氏は、本人は謙遜することしきりだが、感度の高い中学生だった。裏原宿カルチャーとその周辺の格好いいオトナたちの存在を次第に知っていき、高校は山の手地区にある都立に進学した。全身エイプの迷彩柄の服を着て入学式に行き、“あーみー”と呼ばれるようになり、この愛称はアソビシステムを設立して16年経ったいまでも使われている。
「高校時代は放課後になると毎日のように、渋谷や原宿にいました。90年代中頃は、渋谷・センター街にはギャルやギャル男がいて、駅から少し離れた宇田川町にはレコード好きが集まり、日本語ラップ全盛の時代でした。他方、Hi-STANDARDやHUSKING-BEEに代表されるメロコアも一大ムーブメントになっていて、僕もバンド活動をしていました。アパレルと音楽が複合的に混ざりながらストリートカルチャーが根付きはじめた時代でしたね。裏原宿カルチャーも好きで、インディペンデントなブランドがメジャーな存在に押し上がっていく姿も目の当たりにしました」
いま、新しいカルチャーの前線はどこにある? 自分らしさ、自分らしいアンテナを大切にする中川氏は、インターネット黎明期だった10代の頃、自らの足を使ってカルチャーの前線に飛び込み、青春を謳歌した。聞けば、高校の体育祭では応援団員として手を挙げ、代々木公園で練習していたことも。卒業式では答辞を読み上げた。「みんなで盛り上がることが好きだったんです」と中川氏。
大学に進学すると、リーダー的な資質が開花。テニスサークルの会長をする傍ら、「5iVESTAR」という当時国内最大級の学生参加型のイベントを企画。同年代の美容学生や服飾学生を中心としたファッションショーを開催した。
「5iVESTAR」は高校生・専門学生・大学生などが中心となりファッション・ヘアメイクショーを発表するショーイベントとして2002年に初開催。
イベント形態はショーだけにとどまらず、豪華ゲストのライブやDJ、出展ブースや有名雑誌の人気モデルが一同に集まるショーなども展開した
「イベントで人をまとめたり、幹事をすることが苦にならないタイプで、今も昔も自分たちがやりたいことをやってる感じです。クラブが空きがちな月曜に、あえて火曜が休みの美容師に絞って『美容師ナイト』を企画したり。人さえ入れば会場を貸してくれるぞ、と。まだ若かったので、アイデア勝負でいろいろなイベントを打ち出した時期でした。純粋にクラブカルチャーが好きで、クラブから出てきたアーティストや空間自体に興味があるタイプだったんです。業界のルールは大切だけれど、そのルールの中に居ながらもルールに乗っ取らない場所を探そうという気持ちが強いです。自分たちで新しい道を切り拓いたほうが楽しいし、何よりも人と人を繋げるのが好きなんです。アソビシステム設立の前、じつはひとつ会社を作り、5000万円の借金を背負ったこともありました。アソビシステム設立の前夜はこんな風にしてマイナスのスタートでしたね」
語り口は飄々と、でも時おり無邪気に笑みをこぼす。当時を振り返り、「『5iVESTAR』に出てくれた読者モデルとたくさん知り合いがいましたが、当時は読者モデルという仕事はありませんでした。そんな彼女たちを原宿系、青文字系としてマネジメントできないかなぁ。こんな思いがアソビシステムの設立に繋がっていきました」と、懐かしそうに話す中川氏。当時の原宿といえば裏原宿カルチャーが落ち着き、カラフルポップな子たちが現れはじめた時期だった。
時は2007年、あるひとりの女の子との出会いをきっかけにアソビシステムの躍進は始まるーー。
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