カナダでの修行から神泉を経て原宿 「ここ逃したらもうない」
季節外れの陽気に包まれ、空は快晴。タトゥースタジオにも午前中の心地よい陽が差し込む。編集部が近く、通勤時や取材の行き帰りなどでスタジオの前をよく通る。2023年のいつ頃からか日本を代表する手描き看板アーティスト「NUTS ART WORKS」によるサインが施され、一層目を惹く佇まいになった。
「TATTOO STUDIO YAMADA」に立ち入るのは初めてだが、中は清潔感があって明るい。まるでカフェやヘアサロンに来たような、良い香りのする心地良い空間だ。色とりどりのインク、そこかしこにタトゥーのデザインが飾られている。ギャラリーで作品を見るようなワクワク感と、男が夢見る秘密基地のような雰囲気がたまらないスタジオ内は2F、3Fとアーティストごとに区画されたアトリエがある。
ここが山田蓮が施術を行うアトリエ。それぞれの部屋を覗いてみると人柄やどんな感性の人なのかがなんとなく感じ取れるのが面白い。
3Fに通され、辺りを見回していると「おねがいしまーす!」と、会うのは初めてだが画面を通じてよく聴いている馴染みのある“良い声”が聞こえてきた。階段を登ってきたのは山田蓮その人である。
キャップとフードを被り、肉厚なレザージャケットという出で立ち。フーディの紐に付いたビーズがアメリカンヴィンテージを感じさせ、ゴールドのゴツめなリングと手の甲には刻まれた天使のタトゥーが覗く。
もともと好奇心旺盛かつ目立ちたがり屋な性格で、いつもクラスの中心にいたという山田。対面した瞬間、無邪気な少年っぽさとハードボイルドなオーラが入り混じり、不思議と人を惹きつける魔力のようなものを感じた。
その生い立ちは「TOKYO HEART」代表を務める細山亮哉(BUNA)がプロデューサーを務める、ポッドキャストプログラム「WEiRDOS」が詳しい。福島県に生まれ、バイク好きな父親の影響もあり、アメカジファッションに傾倒していった高校時代。漠然と、塗装屋として地元で働く父の仕事を継ぐのだろうと考えていたそうだが、「大学は行っておけ」という親の言葉のもとで、山田が好きだったファッションを学べる「文化学園大学」へ進学した。
山田はその授業の中で出会った、アメリカン・トラディショナル・タトゥー(それを山田が知るのは後のこと)のデザインが落とし込まれた服に心惹かれた。それから服の上に模倣したデザインを描いていたそうだが、だんだんと彫り師として人の肌に画を描きたいと思うようになり、2年次の初めに大学を中退。彫り師としての活動を始める。2016年頃のことだ。
それからファーストタトゥーを彫ってもらった彫り師にいろいろと話を聞き、師を持たず独学でタトゥーを身に付けることを選択した。練習のコツなんかを彫り師に聞き、それ以外は自分で調べたりしながら彫り師としての修練に没頭していく。さて、ここから山田自身にキャリア初期の頃から話を伺っていこう。
「彫り師としての活動を始めてからしばらくして、ワーキングホリデーでカナダへ行きました。それももう、全部タトゥーの修行のため。現地のタトゥースタジオでずっとタトゥーを彫ってました。カナダに行く前は住んでいた下北沢の近くの定食屋さんの奥の部屋が空いていたので、そこをスタジオにして、働きながら彫らせてもらっていました。」
カナダから帰ってきてからも、下北沢の馴染みの定食屋を間借りしてタトゥーを彫った。自分の手で100万円を貯め、2018年渋谷区・円山町は神泉駅目の前のマンションの一室にタトゥースタジオを構えたところから「TATTOO STUDIO YAMADA」はスタートする。
2018年:下北沢の定食屋でタトゥーをやりながら、キッチンカーでオムライスを販売していた頃 ©TATTOO STUDIO YAMADA
当初、カナダから帰国したらタトゥースタジオに入って働かせてもらえる約束もあったそうだが、その時点では山田自身の技術が追いついていなかったこともあり、果たされることはなかった。先述のポッドキャストやYouTubeでその時のことを明かしているが、決してそのことを腐したりすることもなければ、当時からクヨクヨと折れるようなこともなかったというのが山田らしい。
2020年:神泉のスタジオでの施術風景 ©TATTOO STUDIO YAMADA
むしろその悔しさを燃料に、山田は自身の王道を切り拓いていく。馬を駆り荒野を進む孤高のカウボーイのごとく。神泉でスタジオを開いてからはそんな状況にも変化が表れはじめる。
神泉には今も、スタジオを運営する株式会社「TOKYO HEART」の事務所がある。
「最初はずっと一人でやるつもりだったんです。でも、やっていく内にどんどん仲間が増えていったので、新しいスタジオを探し始めました。」
新しい場所を探したがなかなか物件は見つからなかった。タトゥースタジオという業種も、日本においてはハードルとなるのかもしれない。
「僕はバイクが好きなのでガレージが欲しいっていうのも条件だった。そんな中で今の物件のオーナーさんをご紹介いただいて、原宿に拠点を構えることになりました。理想的だったけど、家賃は想定の3倍以上。でも、ここ逃したらもうないだろうってことで、潰れてもいい覚悟で思い切って決めましたね」