【私の原宿】それぞれの思い出は宝物のように。カツセマサヒコ、原宿の記憶
変わりゆく、移りゆく
何度も足を運んでいる街なのに、いつの間にか建物がなくなったとき、それに気付けず「あれ、ここ、何があったっけ?」と後から考えたりする。景色は日常に溶け込みすぎると輪郭がぼやけてしまうようで、僕はその細かな変化にまで気付かず日々を雑に通り過ぎている。
知らぬ間になくなってしまったその建物にも、働いていた人や、足繁く通っていたお客さんはきっといる。僕の目にはぼやけていた輪郭の部分に、誰かの生活が確かに存在している。そのことを、時の流れに身を委ねすぎると、どうしても忘れがちになってしまう。
高校時代に、古着が好きな女性と付き合っていた。原宿のシカゴ本店やWEGO、ハンジローによく連れて行ってもらって、金魚の糞のようにくっついて回るか、飼い犬のように試着室から出てくるのを待っているか、着せ替え人形のように服を選んでもらっていた。
あれから20年近く経つが、今は、どの店も移転していたり閉店したりしていて、当時の場所に店はない。
今年、「歩く小説」という仕事をした。スマートフォンから流れる小説を聴きながら原宿の街を歩くと、別の景色や物語が見えるといったコンセプトだ。その小説を書きながら、当時の彼女と、変わっていった原宿の街並みのことを考えていた。
変わりゆく街だけれど、記憶は確かにある。今でも古着屋の位置は思い出せるし、当時の青過ぎた僕と彼女を思い出すこともできる。でも、この記憶は僕の中にだけ存在していて、他の誰かにとってみれば、気付かず通り過ぎるような、溶けた日常の景色に過ぎない。
人それぞれの、思い出や記憶があるということ。それらを宝物と呼ぶのだとしたら、変化が早いこの街には、たくさんの宝物が埋まっていることになる。それはなんだか、寂しいけれど美しいことのようにも思えて、ノスタルジックでロマンチックだ。それがこの街の魅力だとするなら、いつまでも引き継がれて、消えずに語り継がれてほしいと思う。
また、新しいビルが建とうとしている。その前には、どんな店があったっけ。過去に思いを馳せながら、未来をほんの少し想像して、また一歩、目的地へ足早に進む。
Text & Photo:カツセマサヒコ