表参道ヒルズ開業。初代館長が語る「同潤会青山アパート」への想い
2006年、ケヤキ並木のシンボルとして80年間にわたり愛された「同潤会青山アパート」跡地に、森ビルによる「表参道ヒルズ」が誕生した。そして、初代館長という重役を任命されたのは、ラフォーレ原宿で培った街への深い理解を持つ荒川氏であった。しかし、その裏にはこんな経緯もあったという。
自身を「同潤会を知る最後の世代」だと話す荒川氏。「同潤会青山アパートはギャラリーやアパレルショップがありながらも、メインは住居。分かりやすく言うと高級住宅で、巨人軍の海外選手からスタジオジブリの関係者さんまで、様々な方々が住んでいました。真ん中にブランコのある公園もあって、そこに人が溜まってたんですよ」
「実は、本当は僕でなく4〜5つ上の先輩が館長に就任する予定だったんです。彼は同潤会に住んで日々入居者の方々とのコミュニケーションもしていました。僕もその先輩の部屋で『表参道をこういう形で開発をするんだ。一緒にやろう!』という話をよく聞いていて、まさに館長に相応しい人間でした。けれど、彼は代々木公園でジョギング中に亡くなってしまったんです。だから僕は、彼が果たせなかった、託された夢を引き継ごうという意識を強く持ちながら、表参道ヒルズの開業を迎えました」
開業当初を振り返りながら、荒川氏は「表参道ヒルズを新たな街のランドマークにするつもりは全くなかった」と話す。
「僕らがまず一歩目の目標として設定したのは『新たなランドマークができたな』ではなく『前からあった施設みたいだね』と言われること。街の皆さまと一緒に街づくりをする施設として、風景や歴史に馴染めるかどうかはとても重要なテーマでした。その点で、安藤忠雄さんの設計は素晴らしいです。ケヤキ並木と同程度の高さの建物や、表参道ほぼ同じ勾配のスロープ、同潤会青山アパートを再現した『同潤館』などが、我々の考えを体現してくださっています」
「表参道ヒルズを設計した建築家・安藤忠雄さんは、吹き抜け大階段やイベントスペースにその面影を残してくださっていると感じます」
街と共にあろうという考え方はラフォーレ原宿と変わらない。一方で、大きく異なる点として表参道ヒルズを“商住施設”と位置付けたことが挙げられる。
「表参道ヒルズの4-5階はレジデンスフロアになっていて、住んで暮らしていただくことができます。同潤会青山アパートの歴史を尊重し、『住』という要素を大切にしたかったということがまずあります。そして、1998年に解体された原宿セントラルアパートへの想いを持つ方々も多いことを知っていたので『表参道ヒルズがそれに代わる役割をできないか』という想いも。そこでレジデンスフロアは、この街で活躍するクリエイターさんに積極的に住んでいただくことにしていました。商業施設でありながら、上の階では街の生活空間になっていて、そんな環境から常にクリエーションが生まれている建物を目指しています。表参道ヒルズは、“商住施設”なのです」
「残すべきもの」を大切にし、丁寧に取り組み続ける荒川氏。一方で、もちろん表参道ヒルズによってこの街を進化させたいという想いもあった。
「せっかく原宿と青山という異なるカルチャーを繋ぐ通りに誕生した施設なので、ラフォーレ原宿から明治通りを渡って表参道の坂をのぼっていくなかで、表参道ヒルズ沿いを歩きながらだんだんと大人になっていくような感覚を与える存在になれたらというイメージはありました。実際に表参道ヒルズの誕生によって海外のラグジュアリーブランドがケヤキ並木沿いに増え、VOGUEさんと組んでFashion's Night Outを実施するなど、ヤングカルチャーとラグジュアリーカルチャーの架け橋的な役割ができたと思っています。今は表参道はさらに次のステージにいて、多様化が進んで良い意味で年齢のグラデーションはなくなっていますね。ラフォーレのバッグを持った方が表参道ヒルズで買い物を楽しんでいたりと、もう世代やジェンダーで客層を区切ることはできなくなっていますが、そんな時代を受け入れられるこの街の奥行きを、表参道ヒルズがつくれたのではないかと思うことがあります」
様々な想いを背負いながら表参道ヒルズの進むべき方向性を示し、街で愛される施設へと育てあげた荒川氏。2014年、満を持して300mの距離を戻り、株式会社ラフォーレ原宿の社長に就任する。