竹の子族とクールス。原宿の二面性。
チェキを使うフォトグラファーとして世界的人気を誇る米原さん。近年は自身が撮影した写真にペイントを施すアート作品も展開している
米原さんが原宿に初めて訪れたのは1978年。熊本から家出をし、渋谷のパンク・ニューウェーブ系カフェでアルバイトを始めた19歳のときだった。バイト仲間の中にはその後日本のヒップホップカルチャーの先駆者として活躍する高木完氏も。米原さんがこの頃からすでに時代を動かす何かに身を近づける”嗅覚”を持ち合わせていることがうかがえるが、そんな彼が原宿を訪れた目的は「竹の子族」。派手な衣装でディスコサウンドに合わせてステップダンスを踊る若者たちの総称で、多いときには2000人の竹の子族が代々木公園横の歩行者天国で踊り、ギャラリーを含めると10万人を超えたとも言われている。
写真集『原宿竹の子族』(第三書館・1981年)
「熱気があってすごいなというのが最初の率直な感想だったね。竹の子族が代々木公園に集まってたのって、ディスコ立ち入り禁止になったからなんだよ。ピューピュー笛吹くから迷惑だって。それならと公園に集まり始めた。みんな遠くから電車で来て、原宿駅のトイレで着替えて。すごいエネルギーだよね。ただ、あれをやってたのって田舎から出てきた人たちだから、正直かっこいいとは思わなかったかな。まぁ自分も田舎から出てきたばかりなわけだけど(笑)。俺はニューウェーブとかパンクスとかロンドン系のカルチャーに興味があって上京してたから、その頃通ってたのは新宿のツバキハウス(藤原ヒロシ氏の飛躍のきっかけを作ったことでも知られる伝説的ディスコ。文化服装学院や東京モード学園の学生などで溢れていた)。で、当時その界隈ではゲイ的なことが一番かっこいいっていう空気があったから、『俺たちはオカマ族だ』って言って口紅塗って原宿まで行ったりしてた。俺は似合わなすぎってすぐ気付いて1ヶ月でやめたけど(笑)」」
その後学習院大学に入学し、緑のシャツに黄色いパンツ、赤いシューズというニューウェーブなファッションで登校した結果誰も寄って来なかったという米原さんは、卒業すると大学生の時から始めていたライターとしての活動を本格的に開始。直後、ストリート系雑誌『ガールズライフ』にて原宿に関する特集を担当し、このエリアの新たな魅力に触れる。
現・東急プラザ表参道原宿の位置に存在した、クリエイターが集う伝説のカフェ『レオン』(撮影:染吾郎)/スタイリスト・中村のんさんのインタビューより
「『原宿物語』っていう8ページの特集だったんだけど、俺がその時取材したのは竹の子族だった沖田浩之、ブラックキャッツ、そして岩城滉一。岩城さんが遊んでたのは、表参道方面の原宿。ここには同じクールス(岩城滉一氏がリーダーを務めるバイカー集団。メンバーだった舘ひろし氏がロックグループ・クールスを立ち上げた)のメンバーがワイワイ遊んでるようなエリアでさ。ちょっと行きづらい場所だったんだけど、取材をしていたら、岩城滉一さんから『お前面白いな』って気に入ってもらえて。岩城さんに連れまわしてもらいながら、同潤会の中のお洒落なテイラーとかいろいろ教えてもらえるようになった。待ち合わせはいつも『レオン』っていうカフェで…。雑誌でいうと初期の『STUDIO VOICE』(当時はアンディ・ウォーホールが創刊した雑誌『interview』の日本版であった)みたいなライフスタイルっていうのかな、質の高い都会生活、新しい世界を教えてもらえたという感じだった。次第にラフォーレ原宿が盛り上がってきて若い子も来る街になったけど、70年代から80年代前半までの僕の知ってるあのエリアは、大人の街だったなぁ」
荒削りでエネルギッシュな一面と、洗練された大人な一面。原宿のふたつの顔を見た彼は、その後、原宿にオフィスを構えることになる。
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