90年代裏原カルチャーの偉大さと、意外な短所…?
1995年。米原さんは伝説的ギャル雑誌『egg』を立ち上げる。”ギャル”は渋谷のシンボルとなっていくが、米原さんがeggを編集する場所として選んだのは、原宿であった。
米原さんが立ち上げ、世の中に大きなインパクトを与えたギャル雑誌『egg』
「バブル時代が始まると原宿に元気が無くなった。でも僕はやっぱり原宿好きだった。だから『これからまた盛り上がりそうな空気があるな』と思って選んだだけなんだよ。実際それからしばらくして原宿は裏原ブームでまた盛り上がっていって『ほらね』って感じだった。俺は『egg』やってたから何か貢献したわけじゃないんだけどさ(笑)」
渋谷を舞台とする全盛期の『egg』を編集しながら、原宿を間近で見ていた米原さん。彼の目に、90年代後半に巻き起こった裏原ブームはどのように映っていたのか。
「APE®とかNEIGHBOURHOODとか、世界中の価値観を変えるような仕事をサクッとやっちゃう20代の彼らは男からするとすごくカッコ良かった。たとえば欧米の人たちってそれまで白いTシャツなんて着なかったんだけど、裏原が流行ってからはみんな白Tを着始めた。Supremeだって、裏原がなかったら生まれてないよね。少量生産とかダブルネームでリミテッド感を出して列を作らせるみたいなやり方は、全部裏原から生まれたから」
「BAPE® STORE 原宿」。裏原ブームを象徴するブランドであり、今も世界中からファンが集まる
そう評価する一方で、寂しく感じていた部分もあったと語る。
「当時、裏原カルチャーは良くも悪くもファッションオタク男子のものだったから、女の子の気配がなかったんだよね。作ってる側も買ってる側も『モテより服』ってタイプで。あの界隈が開いてるパーティーとか行っても女の子が全然いなから、俺行かなくなっちゃった(笑)」
そんな中、米原さんは2001年、原宿系女性ファッション誌『mini』のモデルたちにメンズの裏原ブランドを着用させ、おしゃれかつセクシーに撮ったフォト雑誌『smart girls』を創刊。男女問わず記憶に残っている人は多いだろう。創刊号から、13万部のヒット。
「2000年に創刊された原宿系の女性ファッション誌『mini』が売れてたんだけど、原宿の女の子たちにはセクシーっていう要素がなかったから、引き出したら面白いかなと。『egg』に出てる渋谷のギャルの方がセクシーだったから、そこに対抗するようなものを出せたらと。それがうまくいってからは、渋谷と原宿どっちの女の子も撮るようになっていったかな。渋谷のギャルに始まって裏原女子、109のカリスマ店員、青文字系の読者モデル、ハーフモデル、きゃりーちゃんとかKAWAII系…こう振り返ると、女の子のブームは渋谷と原宿の間で交互に生まれてきてたね」
90年代から現在に至るまで、原宿にオフィスを構え続けながら、この街のカルチャーを独自の目線で眺め、写真や雑誌という形で記録してきた米原さん。新たなカルチャーが生まれる瞬間を数多く目にしてきた彼は、現在の原宿をどう見ているのだろうか。
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