
石津祥介氏 VAN TOWN AOYAMAの頃と青山のこれから
(2020/03/23)
1960年代に一世を風靡したアイビーファッションブランド『VAN(ヴァン)』の創業者・石津謙介氏と、謙介氏の右腕としてVANの成長を支えた石津祥介氏。彼らは、今から約55年前、この青山の地に『VAN』の本社を置くことを決めた。当時、まだ今のように発展していなかった青山の街に「可能性を感じた」のだという。
このトークショーでは、謙介氏の長男であり、ともに青山の文化を作ってきた、石津祥介氏が「当時の青山」と「青山のこれから」について、語ってくださいました。
『VAN』とは?
1960年代に一世を風靡したアパレルブランド『VAN』。アメリカの学生スタイル「アイビールック」を日本に浸透させ、たちまち流行に敏感な若者の間でブームに。当時、東京・銀座に集まっていた、おしゃれな若者「みゆき族」の間では、VANの袋を持っていることすらステータスだった。
また、創業者・石津謙介氏の影響力もかなり大きく、当時の若者の間ではまさにカリスマ的存在だった。現代ではごく普通に使用されている「TPO」や「カジュアル」「トレーナー」「Tシャツ」といった、和製ファッション用語を定着させたのも彼だった。また「青山」の街に、本社を移してからは、息子である祥介氏とともに、多くのカルチャー発信地を作ったことでも知られている。
VAN TOWN AOYAMAの頃
ーー55年前、「VAN」の本社を日本橋から「青山」へ移したのは、なぜだったんですか?
石津祥介(以下、石津):移動するなら「かっこいい街」がいいと思っていたので「青山」を選びました。当時の表参道は、まだ今のように栄えていなく、お店もほとんどなかったのですが、あのケヤキ並木は、当時から日本離れしたような雰囲気で、初めて見た時からすごく気に入ったんですよね。
現在は青山通りと外苑西通りの交差点「DEAN & DELUCA カフェ青山」
石津:もう1つは、近くに「スポーツ」をする場所がたくさんあるということ。野球場が2つと、当時はボーリング場ができたばかりでした。カジュアルウェアやスポーツウェアの会社をおく場所としては、うってつけの場所だったんです。
石津:もう1つは、近くに「スポーツ」をする場所がたくさんあるということ。野球場が2つと、当時はボーリング場ができたばかりでした。カジュアルウェアやスポーツウェアの会社をおく場所としては、うってつけの場所だったんです。

石津:当時は、本社だけでなくVANに関係する施設が、青山三丁目交差点付近を中心とし、キラー通りや青山通り沿いまで、点在していました。いつしか、その一帯が「VAN TOWN 青山」と呼ばれるようになったのですが、実はそう呼び始めたのは僕なんですよ。誰かが呼んでくれるのを、待ってられなくてね(笑)。
カルチャーの発信地「VAN 99 ホール」
1972年頃、謙介氏がパリで「カルダン劇場」を見たことをきっかけに誕生した「VAN 99 ホール」。場所は、VAN35ビルの1F。元々は展示会や、社内イベントを行うスペースとして作られたその場所は、いつしか若手クリエイターやデザイナーの集まる場所となり、カルチャーの発信地となっていった。
現在のこの場所は、青山通り沿いの「Brooks Brothers 青山」
石津:名前を「99ホール」にしたのは、99人しか入れないという意味なんです。100でもよかったのですが、100ホールよりも99ホールの方が響きがよいじゃないですか(笑)。だから入場料も99円だったし、とにかく「99」という数字にこだわっていましたね。
99ホール内にあった「Caffe Espresso 356」
石津:元々は会社の展示用スペースだったので、儲けようという気は全くなくて。だから、出来るだけ安く貸し出ししていました。なので、才能はあるけれどお金のない若者がたくさん集まったんです。三宅一生さんや、コシノジュンコさんがファッションショーをやったり、劇作家・つかこうへいさんも、借りてくれていたんですよ。親父は、気に入ると「いいよ、あんたタダで」って言っちゃう人ですから。以前、黒柳徹子さんと会ってお話した際に「私、99ホールの常連だったのよ」なんて言われたりしたこともあったくらいです。
ーー今の青山には、そういう場所があまりないような気がしますが、どうしたら若い人たちが挑戦できるような街になるでしょうか。
石津:憧れられるような人が、憧れられることをやれば、そんな街になっていくと思いますよ。男性なら「かっこいい」、女性なら「かわいい」、それでいいんです。だって、青山では、可愛い食べ物しか流行らないじゃないですか。可愛くないと「写メ」撮れないからね(笑)。最近は、口で食べるんじゃなくて、スマホで食べるんですよね。
石津:元々は会社の展示用スペースだったので、儲けようという気は全くなくて。だから、出来るだけ安く貸し出ししていました。なので、才能はあるけれどお金のない若者がたくさん集まったんです。三宅一生さんや、コシノジュンコさんがファッションショーをやったり、劇作家・つかこうへいさんも、借りてくれていたんですよ。親父は、気に入ると「いいよ、あんたタダで」って言っちゃう人ですから。以前、黒柳徹子さんと会ってお話した際に「私、99ホールの常連だったのよ」なんて言われたりしたこともあったくらいです。
ーー今の青山には、そういう場所があまりないような気がしますが、どうしたら若い人たちが挑戦できるような街になるでしょうか。
石津:憧れられるような人が、憧れられることをやれば、そんな街になっていくと思いますよ。男性なら「かっこいい」、女性なら「かわいい」、それでいいんです。だって、青山では、可愛い食べ物しか流行らないじゃないですか。可愛くないと「写メ」撮れないからね(笑)。最近は、口で食べるんじゃなくて、スマホで食べるんですよね。
ーー石津さんから見て「これからの青山」は、どうなっていくと思いますか?
石津:僕には、これからの青山が、よく分からないんです。だって僕には、食べ物を「可愛い」と言いながら写真を撮る感覚が分からないからね。それでいうと、青山は「女性の街」なんだと思いますよ。僕が党首ならば、青山を女性の街にすると思います。それで、新しく「青山党」という政党を作って……。
でも、今は青山を盛り上げる絶好のチャンスだと思います。駅伝や、天皇陛下即位のパレードの時は、過去にないくらい「青山通り」という言葉がテレビで発されて。「青山通り」は今、日本中で1番注目されている通りなのではないでしょうか。
青山は、今でも僕の「遊び場」
石津:僕は、来週で85歳になります。色々な場所で「85歳で人生終わる」って公言しているものですから、来週で終わらなきゃ(笑)。あ、でも人生が終わるだけで、人間が終わるとは言っていませんよ。“石津祥介” という人生を一旦閉じて、また新しく1歳から始めたいなと思っているんです。新しい彼女見つけたり、食べたことのない食べ物を食べたりね(笑)。
今のところは、青山から動きたくないですね。今でも僕は、青山の事務所に毎日通勤しているんですけど、周りを散歩するだけでも1日が足りないんですよ。私にとって、青山はいつまでも「遊び場」なんですよね。でも、もしこの先、青山が変わって「遊び場」がどんどんなくなっていったとしたら、青山から引退しようかな、なんて思っています(笑)。
石津:そういえば、今日ここへ来るときに思ったんですけど、この山陽堂書店さんから善光寺さんまでの並びだけは、 昭和時代からずっと変わらないですよね。道路の向こう側から眺めて、古いパリの街角みたいで素敵だなぁと、思ったんです。
“オモハラ”という言葉ができるよりも、はるか昔に、この青山の街を選び、ファッションとカルチャーを発信し続けた、石津謙介さんと石津祥介さん。
流行の発信地・青山は、今後どうなっていくのだろうか。石津さんが「青山から引退しよう」なんて思う日が来ないよう、これからもずっと「遊び場」のある街であってほしいと願う。
Text:Miwo Tsuji
Photo:Yuki Maeda
