「原宿は色彩のシェルター」“Kawaii”と世界を繋ぐ、増田セバスチャンと表参道・原宿の30年
常に新しい若者文化を生み出し、異端を受け入れてきた街、表参道・原宿。そのカルチャー史を語る上で欠かせないのが、“Kawaii”文化のパイオニア・増田セバスチャン氏だ。
アーティスト、クリエイティブディレクターとして世界を股にかけ活躍している氏の歩んだ道は、決して平坦なものではなかった。家庭や地元での疎外感、逃避先の大阪での孤独、そして美術界からの痛烈な批判——。数々の挫折と紆余曲折の末に、氏は原宿という「居場所」にたどり着いた。1995年、裏原宿の路地裏にオープンした「6%DOKIDOKI」。幾多の苦悩から自己を治癒するために生み出された極彩色のカルチャーは、やがて国境を越え、今や生きづらさを抱える世界中の若者たちの精神的な支え(アティチュード)となっている。
社会に居場所のなかった孤独な少年は、いかにして世界へ向けた「色彩のシェルター」を創り上げたのか。独自の「オモハラ観」を交えた氏の言葉から、表参道・原宿と“Kawaii”が歩んだ30年の軌跡と現在地を紐解く。

増田セバスチャン
1970年生まれ、ニューヨーク在住。1995年より原宿に拠点を構え、「Kawaii」文化の第一人者としてアート、ファッション、エンタメを横断し活躍。きゃりーぱみゅぱみゅ「PONPONPON」MV美術や「KAWAII MONSTER CAFE」プロデュース等で世界的な評価を得る。2026年、竹下通りにオープンしたGENDA GiGO Entertainment × ASOBISYSTEMのエンタメ施設「KAWAII MONSTER LAND」のクリエイティブを担当。現在、ハイパーミュージアム飯能にて個展「KAWAIITOPIA - GO TO HEAVEN (HELL) -」を開催中。(〜2026年8月30日)
目次
■千代田線の先にある「自分を出せる場所」ホコ天
■逃避と挫折を経て 狂気に潜む「Kawaii」が導いた先
■1995年の原宿 色彩のシェルター「6%DOKIDOKI」誕生
■ソフィア・コッポラからきゃりーぱみゅぱみゅ 世界へ繋がる“Kawaii”のバトン
■色彩のシェルターは世界で新たな“Kawaii”を産む
千代田線の先にある「自分を出せる場所」ホコ天
現在の表参道・原宿は、巨大なガラス張りの商業ビル群が視界を埋め尽くす洗練された街へと変貌した。しかし、1980年代前半、中学生だった増田セバスチャン氏が千代田線に乗って一人で降り立った表参道・原宿の街は、まったく違う匂いを放っていた。当時施行されていた歩行者天国(1977年〜1998年)では、竹の子族やローラー族がカラフルな衣装を纏って踊っていた。「自分もそういう仲間に入りたいと思った」と、氏は当時の背伸びした憧れを振り返る。
中学生時代、セバスチャン氏の地元の松戸は「ヤンキーがモテる」時代に突入していた。絵を描くのが好きでアートの道に進みたいと願う氏は、ヤンキー文化の中で浮いた存在となり、地元の学校に居場所を見いだせずにいた。しかし、表参道・原宿に行けば違ったという。そこには不良もいたが、同じようにアートやファッションに傾倒する文化的なアウトサイダーたちも多くいた。

1990年代の表参道のホコ天。撮影・写真提供:青木正一(STREET 編集室)
現在の原宿駅前「WITH HARAJUKU」がある辺りには、当時「テント村」と呼ばれる露天商が多く集まっていた。まだ何者でもない若者たちはそこに集まり、鋲やパンクアイテムを買い集め、竹下通りで買った“おばちゃん向けの服”すらも創意工夫で着こなし、自己主張の武器へと変えていった。
そうして作り上げた渾身のファッションを身に纏い、社会への反発や自己表現をぶつける「ステージ」として彼らが集まったのが、週末の歩行者天国“ホコ天”だった。
「僕が本格的に表参道・原宿に入り浸るようになった高校生の頃は、そうやって自分たちのファッションをアピールできる『ホコ天の目立つ場所』を確保するために、竹下通りの半地下の店の軒先で寝泊まりしていました。週末だけしか会えないけれど、そこに集まる面々とは家族や兄弟のような絆が育まれていました」

週末の熱狂の中では、誰もが自由だった。この関係性は永遠に続き、絆は決して変わることはない。そう信じて疑わなかった、終わらない夏休みのような心地よい時間。しかし、社会から突きつけられる「大人になるタイムリミット」からは逃れられない。青春のモラトリアムにも徐々に終わりが忍び寄る。
逃避と挫折を経て 狂気に潜む“Kawaii”が導いた先
高校3年生の夏を過ぎた頃に、セバスチャン氏を取り巻いていた空気は一変する。
「『俺らは一生友達だ』『明日も遊ぼう兄弟』なんて言っていたホコ天の仲間たちが、翌月くらいにいきなり就職活動や受験勉強を始め、現実と向き合い出したんです」
さらに悪いことに一部の仲間たちがあやしい商売の勧誘をし始めたのだ。「将来のことよりも、とにかくこの仲間から離れたい」。その一心で、大阪の専門学校に行くと適当な嘘をつき、氏は18歳で逃避するように実際に大阪へ向かった。離れられればどこでも良かったそうだが、“アメ村”はなんとなく原宿に雰囲気が近いのでは?と淡い期待もあったようだ。
だが、逃避先でも居場所は見つからない。当時の大阪は東京への対抗意識が強く、バイト先で標準語を話すだけで「何をスカしとんねん」と拒絶されるアウェーな環境だった。関東育ちの氏には激しい関西弁が「全員が映画『アウトレイジ』のように聞こえた」という。言葉の壁に恐怖した氏は心を閉ざし、部屋に引きこもる孤独な日々を送ることとなる。
今となっては笑って振り返れるが、当時は本当に関西弁が怖かったと語るセバスチャン氏。毎日ダウンタウンが出ていた関西ローカル番組「4時ですよーだ」を録画し、ビデオの背表紙に日付を書き込むだけの日々が続いた。関西弁を克服しようとしていたのかもしれない。
そんな彼を暗闇から救い出したのは、図書館で出会った劇作家・寺山修司の著書『書を捨てよ、町へ出よう』だった。「町へ出て行動を起こせ!と煽られている感覚があったという。抑圧された感情をぶつける場所を求めた氏は、2年に渡る大阪生活に終止符を打ち、再び東京へ戻る。
再上京後、氏が真っ先に飛び込んだのは、寺山修司の流れを汲むような過激な前衛劇団だった。「舞台に上がれば自分の主張ができる」——そこは、社会にはみ出した若者たちが自らの存在を証明するための、最も剥き出しの表現の場だったのである。
その後、氏はさらなる刺激を求め、現代美術家・飴屋法水氏のお手伝いのひとりとして「血のプール」(1993年にレントゲン藝術研究所※1でテクノクラート※2 によって開催された「COMING OUT展」の一部)を作るような過激な展示に関わっていく。
※1:東京大田区大森にあった、元倉庫60坪3階建て、計190坪の現代美術空間。株式会社池内美術の現代美術部門として村上隆氏や会田誠氏といった現在、日本を代表する現代美術家の初期の展示を行っている
※2 飴屋法水を中心とする現代アートユニット。機械やバイオ技術を用いた身体的・概念的な作品で知られる。

圧倒的な前衛表現を前に、セバスチャン氏は「
「ひとつのキャラクターに熱狂し続けるその凄まじさは、もはや『魔力』とも言えるんじゃないでしょうか。何十年にもわたり、子供だけじゃなくて、大人の方が大勢の行列を作っているんですから」
小さい頃から可愛いものが好きだった氏はその引力に注目し、「みんななかよく」というハローキティを生んだ『サンリオ』のスピリッツを理解する一方で、ある種の狂気性も見出したのだ。
ファンシーグッズの可愛さの裏に潜む異常性に着目した増田セバスチャン氏の強烈な色彩感覚の根底には、幼少期の切実な記憶がある。商売を営む実家に居場所がなく、寂しさを紛らわせるために通った駄菓子屋。「並んでいる原色のパッケージが自分を癒し、迎えてくれているように感じた」という原体験から生まれた“Kawaii”は、大人の世界から身を守り、自己を治癒するための「色彩の鎧」だったのである。

「1990年代、大人たちは『未来は機械に侵食され、無機質な時代が来る』とディストピア論を語っていましたが、僕は猛反発したんです。『そんな未来に行くのは絶対に嫌だ。本当の未来を生きるのは自分だ!』と」
無機質な未来へのアンチテーゼとして、生クリーム1トンを使ったケーキに車を突っ込ませるパフォーマンスを敢行するも、美術評論家からは大批判を浴びてしまう(1994年「Psychotoronic Driving2 Tune」でのテクノクラート+ママ名義のパフォーマンス)。社会にも地元にも馴染めず、美術界からも突き放されたセバスチャン氏。行き場を失った脳裏に浮かんだのは、かつての記憶だった。
「僕を面白がってくれる場所は、青春時代に身を寄せた原宿しかない」 数々の挫折と回り道が、氏を再び原宿へと強く結びつけたのである。
演劇時代の増田セバスチャン氏(前列右)。1990年〜1991年、21歳の頃
1995年の原宿 色彩のシェルター「6%DOKIDOKI」誕生
幾多の苦悩を経てたどり着いた、原宿の路地裏——。1995年、神宮前4丁目のいわゆる裏原宿に家賃の安いアパートを借り、増田セバスチャンは自身の好きなアートやプロダクトを飾った。
「最初は、本当にただの人の家でした(笑)。来る人は相当入りづらかったと思いますが、あくまでお店だと言い張って好きなものをどんどん増やしていきました」。
そうして生まれたのが今も続く「6%DOKIDOKI(ロクパーセント・ドキドキ)」である。その独特な店名は、「日常のなかに6%くらいの、ちょっとだけドキドキするモノが売っているお店」というコンセプトに加え、「6」や「DOKIDOKI」という文字が持つ丸みのある視覚的な可愛さ、そして弾むような言葉のリズム感から名付けられた。
1995年当時の「6%DOKIDOKI」。写真提供;Sebastian Masuda Studio
当時界隈では、NIGO氏と髙橋盾氏らが手がける「NOWHERE」など、伝説として語られるショップが隆盛を極めていた。「6%DOKIDOKIは当初原宿っぽくない店と批判されたこともあります」と語るが、自分が好きなものに囲まれた空間を作れば、共鳴する人々が集まってくるという確かな手応えを感じ取っていた。

「自分たちは美容師などのサロン系と繋がっていて、NOWHEREはアーティストやストリートブランドとの繋がりが強かった。けれど、“裏原”という同じ村にいる感覚は確かにありました。NIGOさんたちも同世代で、表現は違えど自分たちの好きなことを追求するという意味で、同じことを考えていたんだと思います」

NOWHERE側が男性中心のストリートカルチャーを発信していたのに対し、6%DOKIDOKIは女性客を中心としたカラフルな世界観。明確に色は分かれていたが、スタッフ同士が互いの店に遊びに行くなど、自然な交流が生まれていたという。
やがて「裏原といえば、“NOWHERE”か“6%DOKIDOKI”か」と並び称される独自の生態系が築かれていった。ちなみに、世界へと轟くこととなる「セバスチャン」の名は、劇団時代にゲームセンターにあったニックネーム診断機で決めたものだという。
「生年月日を入力すると候補が出てくるんですが、“セバスチャン”か“ゴンザレス”が出て、ゴンザレスは違うかな...と思って(笑)」
うっかり「ゴンザレス増田」になっていた世界線もあると思うと、なんとも味わい深い由来である。

1995年当時の「6%DOKIDOKI」写真提:Sebastian Masuda Studio
1998年の歩行者天国終了や、2000年代のファストファッションの台頭により、表参道・原宿のストリートカルチャーは転換期を迎える。そんな中、セバスチャン氏の表現をいち早く見出した『FRUiTS』編集長の青木正一氏とともに、若者の自己表現のステージを取り戻すべく誌面上で「ホコ天復活運動」を展開した。

1997年頃、27歳の頃の増田セバスチャン氏。撮影は『FRUiTS』の青木正一氏によるもの。当時いち早く氏を取り上げた青木氏の慧眼に脱帽。撮影・写真提供:青木正一(STREET 編集室)
さらに2007年には、先述の青木氏や独自の視点でガールズ/ギャルカルチャーを切り取っていた“ヨネちゃん”こと米原康正氏(編集者・写真家・キュレーター)らを巻き込み、原宿発のプロジェクト「H.U.G.(原宿アンリミテッドジェネレーション)」を始動。この連帯は、2011年の震災復興支援「MIGHTY HARAJUKU」プロジェクトへも繋がっていく。

2011年の震災復興支援「MIGHTY HARAJUKU」プロジェクトの一環で米原康正氏と行った『ONE SNAP FOR LOVE』写真提供:Sebastian Masuda Studio
メインストリームが原宿“Kawaii”ファッションを見向きもしない時代から、氏は先見の明を持つ生粋のメディア人たちと交流し、オモハラの路上の熱量をジャンルレスにフックアップし続けたことも大きな功績と言えるだろう。
増田セバスチャン氏のトレードマークでもあるハットは、原宿の街で長年の交流があるという「CA4LA」。この日も新しいものを着用。
ソフィア・コッポラからきゃりーぱみゅぱみゅ 世界へ繋がる“Kawaii”のバトン
2000年代半ばにかけ、mixi(ミクシィ)などに代表されるSNS黎明期、MySpace(マイスペース)の出現と普及が海外への思わぬ扉を開くこととなる。
「MySpaceに自分(6%DOKIDOKI)のページを開設したら、すぐに世界中からメールや写真が届きました」
90年代に原宿という小さなシェルターで蒔いた“Kawaii”の種が、海を越え、独自のミックスを遂げて花開いていたのだ。
その熱狂を直接確かめるべく、セバスチャン氏は2009年から2010年にかけてサンフランシスコやロンドン、パリなど世界各都市を巡る『6%DOKIDOKIワールドツアー』を敢行。“Kawaii”の仕掛け人が、ファンたちの前で“Kawaii”について語り、クリエイティブを実際にお披露目したツアーは、予想以上の動員と反響を得た。
きゃりーぱみゅぱみゅがデビューするおよそ1年前、2010年ごろの写真。6%DOKIDOKIワールドツアーにて行われたロンドン・カムデンストリートのファッションショー。世界的に広がっていく“Kawaii”ムーブメント、その前夜を予感させる1枚。写真提供:Sebastian Masuda Studio
海を越えた“Kawaii”の引力を確信した翌2011年、きゃりーぱみゅぱみゅからの指名で美術を任された「PONPONPON」のMVは、ネットを通じて世界中へ爆発的に拡散。この成功を経てアソビシステムとも深く連携し、原宿の“Kawaii”カルチャーを世界へ打ち出す、さらに強固な推進力が生まれていく。
「彼女の好きなものを知っていたから、それをMVに詰め込んだ」と当時を語る増田セバスチャン氏。写真はデビューEPに続くセカンドシングル「CANDY CANDY」MV制作現場の様子。二人の信頼関係がうかがえる。写真提供:Sebastian Masuda Studio
きゃりーぱみゅぱみゅは、デビュー前から「毎週大きなリボンをつけた可愛い女の子が来る」とスタッフ間で話題になるほどの常連客だったという。
「90年代にソフィア・コッポラが雑誌の取材で『東京らしい最高のお店!』と気に入ってくれたのが始まり。その後、篠原ともえちゃん、千秋ちゃん、2000年代にしょこたん(中川翔子)、そして2010年代にきゃりーぱみゅぱみゅと、各時代で商品を身につけてくれるアイコン的な人が偶然いてくれたんです」
しかし2015年前後、日本では“Kawaii”が大量消費され、単なる記号として焼け野原になってしまったとは本人の談。一方で海外の状況は違った。
「2014年と2018年にNYで個展を行った際、“Kawaii”ファッションの熱狂の理由を探ると、生きづらさを抱える海外の若者にとって“Kawaii”が心の支えになっていたんです。人と違うことをするのが日本よりも難しい環境の中で、“Kawaii”が彼らの生きる力になっていることを知りました」

かつて社会に居場所のなかった少年が原宿の「色彩」に救われたように、今度は氏の創り出した“Kawaii”が、世界中の孤独な若者たちを救っていたのである。それは単なるファッションではなく、過酷な日常を生き抜くためのアイデンティティだった。
その真実を肌で感じるため、氏を受け入れてくれ長らく親しんだ街、表参道・原宿を離れ、2022年にニューヨークのHarlem(ハーレム)に拠点を移した。ニューヨークは最先端であるとともに社会問題も凝縮された都市。そんな厳しい“村社会”の中で覚悟を見せ、現在NY生活は4年目に突入している。

2022年に移住してから初となるチャリティ展「COLORS FOR PEACE」(2022)を行った。写真提供;Sebastian Masuda Studio
「最初は未知の可能性への挑戦だと思っていましたが、実際に行ってみると、その場所に必要とされていることを強く感じました。そこにいるのが必然というような。かつて表参道・原宿の街が僕を受け入れてくれた時、振り返ってみるとその場所に必要とされていたのかもしれない。NYでもそういう場所や機会を作っていけたらと思っています」

色彩のシェルターは世界で新たな“Kawaii”を産む
紆余曲折を経て、セバスチャン氏は表参道・原宿の裏路地、「同じ村」に集まる仲間たちと互いの感性をぶつけ合い、刺激を受けながら、氏はひたすらに自身の好きなものを小さなアパートの一室に詰め込み続けた。その純粋で圧倒的な熱量は“Kawaii”というひとつの巨大な文化を築き上げるに至ったのだ。
時を経て、現在の表参道・原宿の街にはさらに巨大な資本が入り商業的な側面が強くなっているのもまた事実だ。しかし、氏は決して悲観していない。
「大資本が箱を作り、『ここで好きなことをやっていい』と言う。本当に尖っている感性が豊かな子って、そういうのを一番嫌がるじゃないですか(笑)。だからこそ、若者の反発心から新しいサブカルチャーが生まれやすい。今の表参道・原宿に隙間はなかなかないかもしれないけれど、この街に流れる精神を活かす方法や、受け入れられる場所は必ずあるはずです」
「COLORS FOR PEACE」(2022)。写真提供:Sebastian Masuda Studio
そして、今の若い世代へ向けて、氏はこうエールを送る。
「今の子たちは頭が良くて、つい正解を求めてしまう。でも、世の中に正解なんてない。恐れずに、今の自分を一瞬にぶつけるべきだ」

地元に馴染めず、美術論壇から大批判された若者は、表参道・原宿という街に拾われ、世界中のはみ出し者たちの居場所を創り出した。それはやがて文化として確立されアイデンティティとして世界中に広がり、多様な人々を救っている。
「6%DOKIDOKIは今や、人種・宗教・年齢・性別・国境に関係なく、世界中のファンにとって“Kawaii”の聖地になっています。自分もここに来て自分らしく生きることができたからこそ、次の世代にはこの街から世界へ向けて新しい『Kawaii』を作ってほしい」

自らはこの街を離れても、色彩のシェルターとともに表参道・原宿で培った“Kawaii”アティチュードを世界に向けて発信し続ける増田セバスチャン氏。最後に今後のことを聞いた。
「アメリカで市民権を取れば、“セバスチャン”が正式にミドルネームとして登録できます(笑)。50歳過ぎての挑戦ですからね。今度は逆輸入的に、自分が表参道・原宿の若い才能たちに刺激や影響を与えることができたら嬉しい」
表参道・原宿の街がかつて持っていた、異端を許容し自己表現を面白がる引力。その精神は氏を通じて世界中のストリートに種が蒔かれ、世界の“Kawaii”文化として花開いた。そして今も世界のどこかで誰かの「今日一日を生き抜く力」になり続けている。
ニューヨーク・SOHOの壁画前にて 写真提供;Sebastian Masuda Studio
そうして世界を席巻した熱狂が今後、逆輸入される形で再び表参道・原宿へと還り、次なる才能を刺激する起爆剤となり得るのではないか。セバスチャン氏の躍動が、表参道・原宿という街の価値をグローバルに押し上げ、新たな異端児たちを惹きつける強烈な磁場となることを期待せずにはいられない。オモハラの地にどんな未知のカルチャーをもたらすのか、次なる“Kawaii”カルチャーの未来を楽しみに待ちたい。

■6%DOKIDOKI
住所;東京都渋谷区神宮前4丁目28-16 TX101ビル 2F
営業時間;
平日 13:00〜19:00
土日祝日 12:00〜19:00
定休日:なし(不定休)
URL:6%DOKIDOKI オフィシャルサイト
Instagram:@6doki_official
Photo:Takashi Minekura
Interview & Text:Tomohisa Mochizuki



























