ギャラリーから美術館へ 寺山修司やナムジュン・パイクに学んだ「リアルインターネット」
和多利姉弟がアートの世界へ自然と足を踏み入れたのは、母・志津子氏の影響が大いにある。彼女が自宅を改装して作ったワタリウム美術館の前身「ギャルリー・ワタリ」があったからこそだという。

80年代のギャルリー・ワタリの外観 写真提供:ワタリウム美術館
今や広く知られる世界的なアーティストであるキース・ヘリングが初来日を遂げたのも1982年のギャルリー・ワタリだった。当時の日本ではほとんど知られていなかったそうだが、NHKが取材したことによりあっという間に日本にキース・ヘリングの名前と姿が広がった。作品を制作していたアトリエにメディアやギャラリーが殺到し、電話が鳴り止まないほどだったと、恵津子氏は肌で感じたその熱狂の凄まじさを振り返ってくれた。

1983年 キース・ヘリングの初来日初個展。ギャルリー・ワタリ近くのアトリエで制作するキース・ヘリングと和多利姉弟。外には詰めかけたギャラリー。その熱量はすさまじく勝手に入ってくる者も現れ、中から鍵を閉めるなどしなければならなかったという。 写真提供:ワタリウム美術館
世界中を飛び回り、作家と交友関係を構築し、日本にまだ知られていないアートを紹介していた、母・志津子氏はどのような人だったのだろう?
恵津子:「母は呉服屋の娘で、若い頃からアーティストを家に泊めては代わりに着物の柄を描いてもらうということを自然にやっていたそうです。三島由紀夫好きの文学少女でもあった母は、歌人・劇作家である寺山修司さんと一緒に仕事をしたくて、彼に写真を撮らせて『写真家・寺山修司』を誕生させた。あの手腕は見事でしたね」
と振り返る。

2011年 和多利志津子氏と草間彌生氏。出会いから30年以上、構想10年をかけて当初は難しいとされていた草間彌生の60年代活動初期作品に焦点を当てる「草間彌生 展 Kusama's Body Festival in '60s」を見事実現した。長年の交流と情熱、作家への愛の賜物だ。写真提供:ワタリウム美術館
自宅とギャラリーがつながっていたため、夜な夜な寺山修司やグラフィックデザイナーから美術家となる以前の横尾忠則、ビデオ・アートの先駆者として知られる現代美術家、ナムジュン・パイクといった時代を象徴する芸術家たちーーー子供の視点から見れば“変な大人たち”が集まり、酒を酌み交わす光景を、姉弟はこっそり覗き見ていたという。

恵津子:「母が観劇のチケットを『見てきなさい』と渡してくれたので寺山修司さんの観劇は皆勤賞でした。寺山さんは、亡くなるちょうど一年くらい前だったかな、『90人に手紙を書く』とおっしゃって、私にも一通くださったんです。受け取った方は返事を書かなければならない、というルールがありました。ルールなどなくても寺山さんから手紙をもらって返事をしない人はいないでしょうけど。最後まで外の世界とつながり、人と言葉を介して、あらゆる情報を吸収しようとされていたんだと思います」

浩一:「寺山さんやナムジュン・パイクがやっていたことって、リアルインターネットなんですよ。彼らから出てくる情報ってのはとんでもなく早かった。僕らもそれに影響されて、初期のオン・サンデーズは彼らに『これ面白いから入れた方がいいよ』って教えてもらった本や雑貨を入れていました」
やがて「オン・サンデーズ」が手狭になり、「美術館をやろう」という二人の一声で、1985年頃から同地での「美術館建設計画」が始まった。そして「ギャルリー・ワタリ」と「オン・サンデーズ」は、1990年にスイスの建築家マリオ・ボッタの設計により、現在のワタリウム美術館として生まれ変わった。完成に至るまでマリオ・ボッタは計13回にわたって来日し、計画のスタートから5年の歳月が経っていた。
ここで特筆すべきは、一個人がギャラリーから『美術館』という公共性へと発展させたことである。日本特有の“出る杭は打つ・打たれる”という全体主義的な空気感などなんのその。私設という自由度を武器に、“公”には不可能なスピード感、独自に築きあげたネットワークとアイデアで世界の最前線の感性を東京、表参道・原宿に引き寄せた功績は計り知れない。街に根差し、芸術・文化の価値を何倍にも増幅させたその手腕と、和多利家に脈々と流れる本来あるべき「文化的な都市構想」が結びつき、都市の風景すら塗り替えてみせたのだ。まさに“アートシティー”の理想的な姿と言えよう。

和多利恵津子、志津子、浩一 ワタリウム美術館前にて 写真提供:ワタリウム美術館
こうして1990年代以降、ワタリウム美術館はその場所だけでなく、街の中へと展示の場を広げ、社会とアートを接続し波及させていく。
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