DCブランドブーム前夜。石垣の中の倉庫にて
1956年。高校を卒業し「青山ファッションカレッジ」(当時は「原のぶ子デザインアカデミー」)に通い始めた。約60年前を懐かしそうに思い出す菊池氏は「表参道のケヤキは今の3分の1くらいの高さだった」と振り返る。
1950年代の表参道・ケヤキ並木
「緑が多くて空気、環境は良かったですが、閑散としていましたよ。近辺に洋服屋は2軒しかなく、とても商圏として成立するような場所ではなかった。当時は『ファッションの街』といえば銀座。実際、僕も卒業後は銀座を拠点にしながら衣装デザイナーとしての仕事を始めました」
その後約10年間、資生堂やカネボウなどの広告に衣装デザイナーとして参加していた菊池氏。そのセンスからだんだんと名の知られる存在になっていた彼は、1970年、ついに自らのブランド「BIGI」を設立する。だが、出店場所は銀座でなく、まだ栄えていない原宿であった。
モード誌『high fashion』1970年12月号には、誕生したての「BIGI」1号店が記録されている。表参道の石垣の中にあった倉庫を店舗にした斬新な発想も話題に
「銀座はもう過去の人たちが作り上げて、完成している街でした。僕は新しい時代を作ろうと思っていたので、未開拓の土地を選びました。借りた場所も、綺麗なビルの一室などではなく、坂道である表参道沿いにビルを建てるため敷かれていた石垣の中の倉庫。今でこそ倉庫をリノベーションした空間なども流行っていますが、当時はそんな考え方はどのアパレルブランドも持っていませんでしたね」
結果、話題の衣装デザイナーが設立した斬新なアパレルショップには芸能人や雑誌の取材が殺到。オープン1ヶ月目にして常に店内が満員になるほどの繁盛店に。その後、拡大に合わせて移転を繰り返したというが、常に青山通り、キラー通りなどを選び、原宿から離れることはなかった。
「あの頃、喫茶店『レオン』でよくお茶をしていました。まだ原宿は喫茶店も少なかったので、あの辺で働く人はみんな集まっていた。お互い何を企んでいるのか気にし合っていて、写真家とか音楽家とか、業種も年齢も問わず挨拶して会話し始めちゃうような場所でした。原宿をバイクで流していた舘ひろしさんや岩城滉一さんとも仲良くさせてもらっていましたね」
そんな交流も関係してか、菊池氏が手掛ける「BIGI」は、1974年に始まりカリスマ的人気を得たアウトロードラマ『傷だらけの天使』の衣装協力を全面的に請け負うことに。主人公を演じた俳優・萩原健一氏の影響もあり、原宿に存在する「BIGI」は、その名を全国にとどろかせた。いよいよ原宿が「ファッションの街」としての気配を帯び始めたが、まだ周囲にはラフォーレ原宿もコム・デ・ギャルソンもない。DCブランドブーム前夜であった。
70年代、一世を風靡したカリスマドラマ『傷だらけの天使』。衣装は全面的に菊池氏率いる「BIGI」が担当し、主人公たちのファッションも注目を浴びた
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