基本情報なしでも、とにかくやる!プレスとの出会い、独立
「企業のPRを外注で請け負う『アタッシュ・ドゥ・プレス』という仕事を知ったんですよ。まだ日本にないし、未来があるなと。それで『とりあえずやってみよう』と社内で始めたのが、今の会社の前身となる『ヒラオプレス(HIRAO PRESS)』でした」
2007年 HiRAO INCオフィス兼ショールームにて。
だが何をしたらいいのか。またしても彼女には基本情報がなかった。そこでロンドンやパリへリサーチに飛ぶ。「日本でPR会社をやりたいので、お話を聞かせてもらえませんか?」と勇敢なアプローチを仕掛けるも失敗続き。それでも懲りずに現地のコーディネーターにPR会社を紹介してもらった。
「何社かの話を聞くと、ファッションだけでなく、政治家やレストランなど、その会社の社長がやりたい分野なら何でも扱うらしいんです。だから最終的に『自分のやりたいことをやればいいんだ』と理解しましたね。それから村松社長が『平尾がPRを始めたから、みんな依頼してあげて』と言ってくれて、社内から事業が始まったんです」
当時の「アッシュ・ペー・フランス」のPRオフィスは、表参道から程近近く、カワイ表参道を路地に入った場所にあった。その目の前の建物の地下にあったのが「メゾン ミハラヤスヒロ」だ。平尾はミハラ氏との思い出を「年も近いし、お互いに新しい仕事を始めたばかり。意気投合してよく遊んでましたね」と楽しそうに回想する。
また、2001年にヒラオプレスを創立した場所は神宮前交差点のオリンピアアネックス(現・オモカドの立つ場所にあった建物)だったという。
独立を決めたのは2005年頃、平尾が32歳のときだ。転機となったのは社外の案件として担当した大手メーカーの携帯音楽プレーヤーの先端機種である。大きな案件ということもあり、ニューヨークのブランディング会社と一緒に担当することに。プロと仕事をする初の機会に「いよいよ価値に付加価値を付けるクリエイティブがビジネスになる」という確信を得る。
提供いただいた過去写真の中には大量のスクラップブックや資料が写っているものも。ご自身のアイデアや自らリサーチしたブランドの情報がたくさん詰まっているのだろう。
本格的に事業を拡大するなら今だ。そこで村松社長に「アッシュ・ペー・フランス社内だと色が付いてしまうので、PR部門を会社の外に出した方がビジネスとして必ず拡大する。だから会社を作りましょう」とプレゼンするが方向性が合わず、話し合いは1年ほどに及んだ。そして結果的に独立が許可されて何も持たずに円満退社。
しかし迷いもあった。「ずっと会社員でも悪くない。でも自分でやるなら、このタイミングしかない」。そんな葛藤を振りほどいたのは父親だった。「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々。やってみればいいんじゃない?」。そのひと言がなかったら運命は変わっていたかもしれないと振り返る。
2007年当時の写真。手には大量の資料を抱えているが、その表情からは忙しくも充実感を漂わせる。
【次のページ】>>「思わず涙が流れた」悔恨バネに奮起 メンター ヨウジヤマモトの言葉