オモハラとの邂逅「とにかく毎日クラブに行って遊んでました」
「表参道・原宿は、色々なカルチャーの交差点だと思います。ラグジュアリーもあればストリートもあって、国籍もミックスされた面白い土地。ただ昔は大きなメゾンが集まる場所ではなく、同潤会青山アパートの昭和感や、生活の匂いがする“街”でした。裏原を歩いて『こんな場所にこんなお店があったんだ』と発見できたり、文化にゆとりがあった」
地元・茨城での学生時代から、東京へ行く=オモハラエリアだったという。高校の頃、友人とショッピングにやってきたのが表参道・原宿の最初。当時といえばティンバーランドやバーバリーなどのアメカジ、アムラーの最盛期だったそうだ。そこから玉川大学への進学をきっかけに上京してからは下北や原宿〜表参道へ繰り出していたらしい。
「今はもうなくなってしまいましたが、APOLLO(アポロ:北青山3丁目)、 BLUE(ブルー:南青山6丁目)、MANIAC LOVE(マニアック ラブ:南青山5丁目)を始め、とにかく毎日クラブに行って遊んでました。当時のオモハラエリア、特に246近くにはハコ(クラブ)が多かったんですよ。人に会いに行く、社交場のような場所でした。そこで出会って今も一緒に仕事している仲間もいます」
卒業後はファッション関係の仕事を目指し、雑誌社でアシスタントとして働いていた。ただ編集は面白いものの、自分で時間をマネージメントできない。ライターから原稿が届かず嘆く編集者や3日間も帰れないアートディレクターを見ながら彼女は将来どのような環境で働きたいのかを考えた。
「私は好きな服を着て、美しいものに囲まれる仕事がしたい――」。
そんな頃に出会ったのが起業前に10年勤めた、アッシュ・ペー・フランスである。当時の社長・村松孝尚氏はアクセサリーに特化した店だけでなく、LGBT向けのショップも出しており、そこで平尾の友人が働いていた。
店を訪れると、扱われているアイテムは個性的かつ面白いものばかり。「ここなら自分の持ち味を最大限に出せて、最短で最大の成果が出せるんじゃないか?」と感じた彼女は友人経由で無謀にも社長面接を取り付ける。
「『会社に入ったらこんなことができます』、『こんな店を作って、こんなことをしたい』と3時間プレゼンしました。社長もよく聞いてくれたと思いますよ。見切り発車で仕事も辞めて『いつでも働けます』とアピールしたら、やむなく採用してくれたみたいです。完全に押しかけ女房でしたね(笑)」
入社後はPRを志望。当時ひとりだけの部署だったが、そこでアシスタントとして働き始める。しかし当時の平尾は棚卸などの基本的な情報を何にも知らなかった。インターネットやSNSのエビデンスに染まった現代人からすれば無謀すぎるが、彼女にあったのは見よう見まねとパッションだけ。
それから仕事で海外と日本を往復する日々のなか、今の会社に繋がるある種運命的な職種との出会いを果たす。
【次のページ】>>基本情報なしでも、とにかくやる!プレスとの出会い、独立