28歳、東京カルチャーの震源地へ。“時代のミューズ”たちと繋がりを育めたワケ
「28歳で東京に出てきてそこから8年間はデザイン会社に入り、SHIBUYA109のシリンダー広告やラフォーレ原宿の看板を『いつか作る!』という決意をもちながらアシスタントとして死に物狂いで働きました。上京した2004年、最初に住んだのが浅草です。京都に雰囲気が近いということと、『男女7人夏物語』※明石家さんま、大竹しのぶが主演の1986年にTBS系で放送された人気ドラマ が大好きで、隅田川を挟んで住んでいたさんまさんと大竹しのぶさんに憧れもありました(笑)。もう少し原宿に近づいて参宮橋にもちょっと住みましたね。そのあと『渋谷や原宿のカルチャーを常に感じる場所にいるべきだ!』という思いで原宿の六畳一間のアパートにも住み始めます。当時の家賃で6万8000円、この間取りでは決して安い家賃ではなかったけれど、踏ん張りました」
れもんらいふを立ち上げる以前、ファッションのアートディレクションを専門に行う「ストイック」という会社でデスクワークに励む千原氏の写真。2005年頃には、千原氏を象徴する金髪にしていたそうだ(千原氏提供)
2008年頃、千原氏は“原宿村の住人”になった。そこから2011年10月には、原宿の神宮前交差点、『ハラカド』がある場所にデザイン会社『れもんらいふ』を開業する。今はなき、コープオリンピアAnnexの2階にあった知り合いの会社に間借りする、たった2席からのスタートだった。
「僕の思いに共感するスタッフにも恵まれ、れもんらいふの設立以降は、がむしゃらに仕事しながら多くの出会いを育むことができました。れもんらいふの仕事といえば『装苑』※ハイファッション・モード系の女性向けファッション誌 の表紙のデザインという印象を持っている方も少なくないと思います。れもんらいふを創業して1年目くらい。原宿に住んで、育んできた交友関係の甲斐あって、表紙を担当させていただくことができました。Charaさん、きゃりーぱみゅぱみゅちゃん、僕がずっと抱いていた映画監督という夢を叶えた作品『アイスクリームフィーバー』(2023)で主演してくれたモトーラ世理奈のような“時代のミューズ”と評され、表参道・原宿エリアと親和性の高いアーティスト・モデル・俳優さんと出会えました。だから、振り返ってみると僕にとって表参道・原宿は夢を追い続ける場所として、当時から大切な場所といえますね」
千原氏が上京し、原宿に創業するまでの2000年代後半から2010年代初頭にかけ、表参道・原宿の街の顔つきも変わってきていたという。表参道にシンボリックな存在としてあり続けた同潤会アパート(同潤会青山アパートメント)がなくなり2006年に表参道ヒルズが誕生。それを期に、表参道・原宿が商業の街へと変遷していった過渡期だったと振り返る。
「誤解を恐れずに言えば00年代、カルチャーは死の時代を一度迎えた。代わりに、佐藤可士和さんを筆頭にアートディレクター、デザイナーたちが駆け上がっていった“広告”の時代だったと捉えています。そして00年代後半、青文字系が出てきて、きゃりーちゃんが『もしもし原宿』で2011年にデビュー、“原宿KAWAIIを世界に”という機運がピークまで高まったこともあり、インバウンドが増え、外資系のブランドもその間ガンガン進出して、カルチャーの街から商業の街に様変わりしていったと記憶しています」。
様変わりしていった街、その激動の中を千原氏もまた「れもんらいふ」とともに躍進していく。
「好きなことをやっているだけです」――本人は謙遜しきりだが、10年代以降、千原氏が原宿発“Kawaii”を新しいカルチャーに押し上げてきたクリエイターの一人であることに異論を挟む余地はなし。ひと目見てそれと分かるアートディレクションは、れもんらいふの真骨頂だ。斬新なアイデアとどこかクスッとできるユーモアを併せ持ったクリエイティブワークは、アーティストは言うに及ばず、企業からも多く指名がかかる存在となった。躍進の中で近年は「れもんらいふらしさってなんだろう?」 とあらためて考え、深く見つめ直すようにもなったそうだ。
「その答えは探している道中にあるけれど、短期的なパフォーマンスだけに捉われず、多様な選択肢の中から“らしさ”と向き合い続ける覚悟でしかないと思うようになりました。つまり、僕が経営するのは小さなデザイン会社だけれど、10年後、20年後を見据えて誇りを持って存続していけるかってこと。
表参道や原宿エリアに限定して話したとしても、僕がこのまちと深く関わりを持つようになった20年の間に、まちのあり方や存在意義は変容しているように思います。だから、商業施設をただ新しく作るだけでは意味がない。そういう思いもあって『ハラカド』の計画を聞きつけ、事業企画の段階から携わらせてもらうに至りました」
オモハラエリアをいま一度、東京カルチャーの拠点、憧れの場所にしたい。千原氏のこんな思いも追い風としながら、東急プラザ原宿「ハラカド」開業へとつながっていくのだった。
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