“好き”を追い続ける京都発Olive少年。東京カルチャーを浴びたブレイク前夜
「僕、小学生の頃から好きなものが変わっていないんです。映画、音楽、ファッション……好きなものをひたすら吸収しちゃうような“Olive少年”でした。Olive少女ならぬOlive少年。SNSのない30年以上前の話だから、当時は『Olive』や『BRUTUS』『relax』『Esquire』といったカルチャー誌から“東京のいま”を感じていました。渋谷・原宿、カルチャーの震源地はいつだって、憧れの場所でしたね」
本人いわく、「まだ何者でもない、不安だらけのカルチャー男子」。京都で過ごした大学時代はミニシアターに通い、レコード店やカフェ、古着屋、クラブにも出入りしていた。バイト代を手に3ヶ月に1度、夜行バスに乗って東京に行き、雑誌の中で紹介されるさまざまなストリートカルチャーに触れ、巡り歩いた。雑誌に登場するデザイナーやスタイリストといった“裏方の職業”に憧れたのもこの頃からだ。
2002年上京当時。まだトレードマークの金髪になる前だが、被ったハットから今の面影を見てとれる(千原氏提供)
「たしか1993年頃だったかな? 渋谷の『パルコクアトロ』にオープンした『クアトロWAVE』でフリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴのCDと出会いました。渋谷のタワーレコードの書籍売場に行った後に、宇田川町にあった『CISCO(シスコ)』などのレコード店をまわり、それから原宿にあった『W&L.T.』や『クリストファー・ネメス』といったモード系ブランドをチェックしたり、『Olive』を見ながら古着屋を回ったり。原宿のキャットストリートの辺りをウロウロして、そのまま京都に帰らずに沖野修也さんや大沢伸一さん、田中知之さんいわゆる“京都三銃士”がやっていたクラブイベントに行って夜を明かしたり、当時から東京、とりわけ原宿や渋谷にはさまざまな思い出がありますよ」
千原氏が大学生だった90年代中頃の東京は、ファッションと音楽が混ざり合いながらストリートカルチャーが根付き始めた頃。裏原宿カルチャーが隆盛期を迎え、インディペンデントなブランドがメジャーな存在に押し上がっていく時代でもあった。
「大学卒業後はマクドナルドのクーポン券をデザインする大阪の会社に就職しました。グラフィックデザイナーという肩書きでしたが満足していたか?と言われればそうとも言えず。だからこそ、制限の中でいろいろなアイデアを生み出し続けたので、クリエイティブな脳を使う基礎体力はつきましたけどね。働いた5年の間、それまで出入りしていた京都のライブハウスのフライヤーを作ったり、自分なりの楽しみを見つけるような日々でもありました。人生が動き始めたのは、忘れもしない2002年のことです」
当時はグラフィックデザイナー全盛の時代。広告クリエイターの名を冠したプロジェクトが支持を集め、佐藤可士和氏や箭内道彦氏といったクリエイティブディレクターが世を賑わせていた。
「佐藤可士和さんが手がけたSMAPの広告に衝撃を受けました。『美大を出てなくてもアイデアで勝負できる!』と(勝手ながら)思うことができたんです。『デザインも提案の仕方次第では赤と青と黄の3色だけで勝負できるのかもしれない』――こんな気持ちのみを下支えとし、ずっと憧れていた“カルチャーの震源地”に行くことを決めました。それが28歳のとき。僕のグラフィックデザイナーの第二幕が始まります」
デザイン会社のアシスタントとして、東京でのキャリアをスタートさせた千原氏 仕事で海外の撮影にでかけた際の一枚(千原氏提供)
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