原宿を出世させた2つの建物
70年代〜80年代前半、千駄ヶ谷でカルチャー誌の編集をしていた村松氏。もちろん原宿にはよく訪れていたということだが、当時を振り返ってもらうと、「2つの建物」の存在が印象的だったと話す。
「1つ目は原宿セントラルアパート。クリエイションの権化。たったひとつの建物に日本中の若いエネルギーが集まって、原宿を何もない街からクリエイティブな街に変え、それどころか日本の一時代を作っていた。2つ目はラフォーレ原宿。原宿セントラルアパートの向かいに誕生すると、時代を象徴する新しい才能やファッションが集まる場所となり、街を若者からも注目されるメジャーなエリアにした。この2つの建物が、原宿を日本の代表となる街に押し上げたと感じています」
現「東急プラザ表参道原宿」の土地に原宿セントラルアパートは建っていた。原宿セントラルアパートとラフォーレ原宿、向かい合う2つの建物が70〜80年代に原宿を出世させたのだ
あくまで編集者としてラフォーレ原宿をそのように眺めていた村松氏であったが、その後、運命に導かれるようにラフォーレ原宿でアパレル事業を開始する。
「家内が洋服屋に勤めていたのですが、オーナーが引退するので店を買わないかと言われ、引き渡された店が偶然にもラフォーレ原宿内のショップでした。店をオープンする際に会社も立ち上げ、『原宿プロジェクト』という社名に。新しいものが生まれる原宿という街の名を背負うに相応しい会社にしたいという想いを込めました」
1984年、ラフォーレ原宿内に誕生した村松氏の初ショップの名前は「Lamp」。今も場所を変えて「Lamp harajuku」は残っている
”原宿”という街が持つブランドに絶対的な価値を感じながら事業を開始した村松氏。では、なぜその後、社名に「FRANCE」の文字が追加されたのか。
「パリに行った際、知り合いの紹介でフランソワーズという女性のバイヤーに出会いました。日本人の私は、アクセサリーの価値は金の重さや宝石の大きさで決まるという感覚を持っていたのですが、彼女が勧めてきた指輪は、針金をぐるぐる巻いただけのものだった。物質的な価値でなく、クリエイションの価値で物を選んでいたんです。バッグなんかも、機能性で選ばないから、物が入らないようなものを勧めてくる(笑)。最初は驚きましたが、こういう価値観を日本に広めたいという想いを抱き、社名を変更することに。『原宿プロジェクト』の『H.P.』に『FRANCE』をつけて、『H.P.FRANCE』としました」
原宿が持つ"新しいものを生み出すエネルギー"と、フランスが持つ"クリエイションを重視する価値基準"を合わせた商品を提供する企業「H.P.FRANCE」が誕生した。