原宿の前は、上野が最もインターナショナルだった
なぜ、吉澤氏はいつもオモハラの路上にいるのだろうか。聞くと、実は彼、こんなことを10年間続けているという。
「1日1回、必ず表参道店の入り口に立ち、お客さんの様子を眺めて時代の気分を探ります。12時~13時の間は裏原のメンバーが集まっている『CAFE LUIGI』で過ごし、情報交換。それから街を歩き、海外から上陸したカフェやショップ、面白そうな飲み屋があれば入ります。空き物件も常に意識し、家賃の変化を含めて把握するようにしています」
アパレル業界から芸能界まで幅広い交友関係を持つようになった今も、あくまで一般生活者の趣味・趣向を重視している吉澤氏
出典:CA4LA公式ブログ
今ではオモハラの知らない情報などほぼないと豪語する吉澤氏だが、20年前に「CA4LA」を原宿にオープンするまでは、このエリアに特別な関心はなかったという。
「原宿に初めて来たのは高校時代。友人の姉が通訳をしていた関係で、オリンピックの選手村に入れてもらえたんです。自転車で走り回って怒られたりして楽しかった思い出はありますが、選手村の外に出ると何もなかった。それ以来、原宿に訪れることはほとんどありませんでしたね」
当時のオモハラは、ファッション業界を代表する経営者となる男の興味を引くような街ではなかったのだ。では、彼が選んだ街は? 1989年、証券会社を退社した吉澤氏が帽子屋をオープンするのに選んだ場所は、上野・アメ横であった。
「流行に敏感な人が最も多く集まる街、という観点で選びました。当時の日本の若者はみなアメリカに憧れ、ジーパンでもコーラでも、アメリカンな物なら何でも欲しがっていた。そんななか、どこよりもインターナショナルで、流行の発信地となっていた、今でいう原宿のような場所が、上野でした。アメリカの衛星放送が見られるようになり日本人がメジャーリーグを知ったタイミングで、アメ横にたった2坪の店を構え、NYヤンキースのキャップを買い付けて販売したところ、1日200万円も売れたんですよ」
戦後、米軍からの放出品であるミリタリーアイテムを真っ先に販売し始めたアメ横は、ファッション好きな若者が集まる現在の原宿のような場所だった
出典:HARMLESS UNTRUTHS
時代の気分を読み取り、上野の地で成功を収めた吉澤氏であったが、数年後には、その街の衰退を感じ取る。
「上野が賑わっていた時代は、偽物やアメリカ”風”の商品でも通用していました。しかし、90年代後半になり、ヒップホップ系、スケーター系などのストリートファッションが流行すると、本物のアメリカ文化が成熟してきていた原宿に勝てなくなってしまった。みるみるうちに、若者文化の中心が原宿に移動してしまいましたね」
「人が集まるところに金が集まる」という格言を残した直木賞作家・邱永漢(原宿に住んでいたという)が好きだったと話す吉澤氏。1997年、日本初の帽子専門セレクトショップ「CA4LA」をオープンさせる際に選んだ地は、竹下通りや歩行者天国で賑わい始めた、原宿であった。