VANが青山の街に残したものとは? ライフスタイルから街の景色までを変えた創業者・石津謙介氏の孫、石津塁氏が語るルーツ
南青山3丁目交差点。洗練されたビル群、行き交う人々と車。約60年前のこの場所が、まだどこにでもある素朴な風景にすぎなかったことを想像できる人はどれくらいいるだろうか。かつて、何もないこの場所に拠点を構え、街の景色を変えたブランドがある。若者文化そのものを席巻し、社会現象となった「VAN(ヴァン)」だ。
1960年代半ばから1970年代半ばに最盛期を迎え、アメリカントラッドスタイルの一種、“アイビールック”を日本に根付かせた張本人。VANは単なるアパレル企業という枠を軽々と超え、若者のライフスタイル、遊び方、思考回路までもデザインした。
しかし、ここで語りたいのはイチアパレル企業の成功譚ではない。一世を風靡したVANとは、果たして何だったのか。なぜ彼らは当時「何もなかった」青山の地を選んだのか。創業者・石津謙介氏の孫であり、現在は南青山にある石津事務所でそのDNAを継承する石津塁氏の語りから、ブランドの真の姿と、VANがこの街に何をもたらしたかについて順を追って紐解いていこう。

石津塁(いしづ るい)
石津事務所 代表/ファッションディレクター。1969年、東京都生まれ。日本のアメカジ・アイビー文化の礎を築いた「VAN」の創業者・石津謙介を祖父に、ファッションプロデューサー・石津祥介を父に持つ。幼少期より南青山・原宿の文化に囲まれ、現在は南青山にある「石津事務所」の代表を務める。家系に流れるアイビーの美学と「トータルウェア」思想を継承しつつ、ファッションディレクターとして現代のライフスタイルに合わせた独自のディレクションやコンサルティング、ブランドを展開。単なる懐古に留まらないアイビー精神の現代的解釈を提唱している。石津大百科/B.D.C.GOLF
目次
■「これから山手の時代が来る」青山に置かれた巨大な“磁石”
■「面白ければ何でもやる」石津謙介のルーツと「VAN」の由来
■服ではなく「ライフスタイル」を売る 「TAKE IVY」と「MEN'S CLUB」
■「かっこいいのは当たり前」時代の寵児たちが作り上げた洗練の広告
■「流行ではなく紳士であれ」 みゆき族を諭した石津謙介と、価値観を共有するコミュニティ
■三宅一生やタモリもいた!?カルチャーの地層が眠る「99ホール」
■「お洒落になるより洒落た人になれ」洒落た人・石津謙介の肖像
■なぜ青山は「洒落た街」なのか? VANから受け継ぐアイビー精神
「これから山手の時代が来る」青山に置かれた巨大な“磁石”
VANがこの街に何をもたらしたのか。その答えに辿り着くためには、まず創業者である石津謙介氏と、VANというブランドのルーツから順を追って掘り下げていく必要がある。
VANが日本の服飾史、そして青山の街の歴史において決定的な転換点を迎えたのは、1964年の東京オリンピックの年だ。当時、繊維業界の中心は製造拠点が多くあった日本橋に固まっていたが、石津謙介氏は「これからは山手(※青山や赤坂などの高台エリア)の時代が来る」と断言し、本社を青山へ移転させる。
塁氏の父であり、謙介氏の長男である石津祥介氏(2023年逝去)は、かつてOMOHARAREALが取材した山陽堂書店のイベントでこう語っていた。
「移転するなら『かっこいい街』がいいと思っていたので『青山』を選びました。当時の表参道は、まだ今のように栄えていなく、お店もほとんどなかったのですが、あのケヤキ並木は、当時から日本離れしたような雰囲気で、初めて見た時からすごく気に入ったんです」

【REVIEW】 石津祥介氏トークショー@山陽堂書店より 石津祥介氏(2020年)
塁氏が当時を物語る一枚の写真を取り出した。
「最近、事務所の掃除をしていたら古い写真が出てきたんですが、それを見て驚きました。現在の青山グランドホテルがある場所は空き地だったんです。写真は数多く見てきましたがおそらく移転してすぐに撮られた写真じゃないかな。まだ素朴さが街にありますよね」

当時の青山は高い建物はあまりなく、ランドマークといえば「東京ボウリングセンター」がある程度。外苑西通り沿いの一部区間をコシノジュンコ氏が「キラー通り」と命名するのも少し後の話である。しかし、この未開の街に「VAN」という強力な磁石が置かれたこと。それこそが、感度の高い若者やクリエイターたちをこの地に吸い寄せ、現在の洗練された青山へと変貌させる「土壌開拓」の始まりの瞬間だったと言える。

写真提供:石津事務所
「面白ければ何でもやる」石津謙介のルーツと「VAN」の由来
なぜ、VANはメンズファッションが未成熟な時期に、最先端の象徴となり得たのか。その答えは、謙介氏が戦時中に過ごした中国・天津での体験にある。
「祖父のルーツは岡山ですが、戦時中は天津にいました。当時の天津は世界中の人間が交差する国際都市。ロシア人やヨーロッパ人と交流し、そこで触れた洗練された服装とライフスタイルが、後の『トータルウェア』思想の土台になったんだと思います」
終戦後、焼け野原となった岡山から大阪へ出た謙介氏は、1940年代後半〜50年代頃にアメリカ村付近で「石津商店」を立ち上げる。そこで彼が目をつけたのは、在留米軍の肌着だった。
「当時は肌着のまま外を歩くなんて非常識な時代。でも祖父はそこに『格好良さ』を見出した。プリント技術も今のようではないですから、自らマジックで模様を書き込んで自転車に積んで売り歩いたなんて話も聞いたことがあります。アメリカ文化は好きではなかったようですが『面白ければ何でもやる』という、祖父の商売感覚こそがVANの原点ですね」
当時あった風刺雑誌「VAN」からヒントを得て、許諾をもらいそれがブランド名となっていった。そこには“前衛”を意味する「Vanguard(バンガード)」の意も込められていたという。戦後の復興を糧とした既存の価値観への挑戦状であり、まだ何色にも染まっていなかった青山の街の空気に、ぴったりと呼応する名前だったのではないだろうか。
服ではなく「ライフスタイル」を売る 「TAKE IVY」と「MEN'S CLUB」
VANの本質は、単に服を売ることではなく「若者へのライフスタイルの啓蒙」にあった。
象徴的なのが、現在も世界中で伝説的な評価を受ける写真集『テイク・アイビー(TAKE IVY 1965年)』である。日本最古のメンズマガジン『MEN'S CLUB(メンズクラブ「男の服装」として1954年に創刊:ハースト婦人画報社)』に所属していた祥介氏や、VANに入社した服飾評論家・くろすとしゆき氏らが渡米し、リアルなアイビーリーグの学生を写真に収めた。撮影は「メンズクラブ」も撮っていた林田昭慶(はやしだてるよし)氏。 当初は映画撮影の“おまけ”的に発案されたものだったそうだ。
さらに塁氏の事務所には、VANのロゴが入ったノベルティがいくつも目に入る。これらは全国の「特約店(街の洋品店)」に向けて制作されたものだ。ビジュアルで圧倒し、ノベルティで士気を上げ、地方の洋品店を次々と「VANショップ」へと塗り替える。70年代以降、資本の入った拡大路線時には第一次オイルショックの時すら黒字を計上したというVAN。アパレルの流通戦略というより、ある種の思想を全国に布教していく鮮やかな“手口”だった。
この布教活動には、祥介氏が籍を置いていた雑誌『メンズクラブ』も大きな役割を果たした。VANがページを買い、スタイリングや洋服を提供し、撮影を行う。そして祥介氏が筆を取り、記事を書く。雑誌も内容が充実し、VANはアイテムを読者に宣伝できる。そうすることでお互いの関係性が成立していたのだ。祥介氏から聞き及んだ当時の撮影秘話を塁氏が教えてくれた。

「文太さん(菅原文太)はまだブレイク前で、モデルとして活動されていました。父が朝、車で迎えに行くと文太さんはまだ寝ている。現場に着くなり起こして車内でアイビーの服に着替えさせ、そのまま撮影に向かうわけです。文太さん自身は早稲田出身の硬派な“バンカラ”でしたから、撮影が終わるとまた下駄を履いて悠々と帰っていくそうです」

1960年代初頭の「メンズクラブ」に掲載された2枚の写真、1枚目は左から二番目、2枚目左ページのモデルは当時の菅原文太さん。面影もすごいが着こなしてしまうのがさすが。
雑誌が「教科書」となり、VANの服が「制服」となる。広告と編集を完全に一致させたメディアミックスの熱狂が、ここ青山の地から全国へと波及していったのだ。

「TAKE IVY」に掲載されている1ページ。学食やキャンパス内の一幕
「かっこいいのは当たり前」時代の寵児たちが作り上げた洗練の広告
VANがこの街にもたらした最大の功績は、集うクリエイターたちに「表現の場」を提供し、文化的なエコシステムを回したことだろう。
音楽番組『VAN ミュージックブレイク』の提供を行い、内容こそ音楽番組だが、テレビからライフスタイルを刷り込む前衛的な手法を取った。またVANのビルボード広告は、和多利恵津子氏・浩一氏姉弟(ワタリウム美術館館長・代表)をして「抜群だった」と言わしめるほどだったが、制作陣の顔ぶれを見れば納得がいく。

「今思えば、広告がかっこいいのは当たり前なんです。手がけていたのは操上和美さん、浅井慎平さん、立木義浩さんなど、のちに巨匠となる名写真家の方々。でも当時はまだ大御所ではなく、原宿の『セントラルアパート』などに集まっていた時代の寵児たちを積極的に起用していたそうです」
原宿カルチャーの震源地に集う、傑出した才能たち。VANは彼らを抜擢し、全国ネットのCMや広告のアートディレクション、プロデュースを次々と任せていった。VANという企業がハブとなり、このエリアの才能たちに資金と表現の舞台を提供したこと。これこそが、VANを単なるアパレル企業から「街の文化圏」へと押し上げ、青山・原宿一帯をクリエイティブの発信地として決定づけた大きな要因のひとつであったと考えられる。
「流行ではなく紳士であれ」 みゆき族を諭した石津謙介と、価値観を共有するコミュニティ

若者たちの間ではメディアの力もあって、VAN(あるいはJUN)の紙袋を持つことがステータスとなり、銀座のみゆき通りにはアイビールックに身を包んだ「みゆき族」が集まった。そのほとんどは、十代後半から二十代前半の若者だったという。
「祖父は警察からの要請を受け、紙袋を配布するイベントを打ってみゆき族を集めました。そして彼らを『アイビールックの思想は紳士であり、君達のような流行ではない』と諭したといいます」
VANのロゴが入った紙袋、そしてアイビールック。このような「文化的なタグ」を付けることで価値を爆発させるという手法は現代においても、数多あるファッションブランドに見られる。そして限られたコミュニティが先端の情報を共有し、それがブランド価値になって特定のカルチャーに紐づき「同じ価値観を共有する部族」を創り出す。このようなファッションの熱狂を生む一連の現象。その原点はすでにこの1960年代、意図せず青山の街で醸成されていたと言ってもいいかもしれない。
三宅一生やタモリもいた!?カルチャーの地層が眠る「99ホール」
1972年、VANは青山の拠点に多目的スペース「VAN 99ホール(“きゅうきゅう”ホールと読む)」を設立する。
VANの本社別館を青山通り沿いの「356ビル」に移転する際、そこはもともと銀行が所有するお堅い物件だったという。1F部分で何か面白いことをしたいと考えた謙介氏は、自らの趣味であるボクシングや演劇を楽しむための「大人の遊び場」へと作り変えた。

「VAN99ホール」公演時、若者たちがエントランスで列を為す様子 写真提供:石津事務所
「祖父は演劇やボクシングが好きだったので、会社が大きくなり増えていく社員の交流の場としても使えるという思惑だったのではないでしょうか。街との接点を創りたいなんて粋な企みがあったかはわかりません。しかし実際には、三宅一生さんが初期のショーを開催したり、これは確かではないですが若き日のタモリさんが出演していたという話もあります。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドなどの写真も残っていて、結果的には街を巻き込んだ才能を育む青山の『梁山泊』となりました」
石津事務所には謙介氏と三宅一生氏の2ショットの写真が飾られている。互いに手がけるファッションスタイルは違えど、強い絆で晩年まで結ばれていた。謙介氏は入院中も「ISSAY MIYAKE」のシャツを着用していたという。
ここはファッションの枠を超え、演劇、音楽、お笑いなど、あらゆる表現が混ざり合うカオスな空間だった。収容人数99人、入場料99円という設定は、当時の税制や法規制をかいくぐるための石津謙介氏らしい「トンチ」なのではと塁氏は推察する。

99ホールに隣接していた「356カフェ」。塁氏いわく公演一回の料金よりコーヒー一杯の方が高かったのではと推測する。
現在、その跡地には「THE NORTH FACE(ザ・ノース・フェイス)」を展開するゴールドウインの本社が入っている(VANのあと2020年まではアメリカの名門ブランド「Brooks Brothers /ブルックスブラザーズ」が旗艦店を構えていたことも記憶に新しい)。
ゴールドウイン本社1Fのエントランスホールでは不定期で展示イベントが行われ、99ホールの文化発信の役割を引き継いでいるかのようだ。
実は、日本で最初にザ・ノース・フェイスを輸入して紹介したのは、他でもないVANであった。かつてVANがカルチャーの種を蒔いたまさにその場所(跡地)に、ゴールドウインが同ブランドの本社を構えているという数奇な巡り合わせ。ブルックスブラザーズがVANから長年トラッドなカルチャーを引き継いでいたことも踏まえ、この事実を知ると、南青山の土地の奥深くに脈々と受け継がれている「カルチャーの地層」が、よりくっきりと見えてくるはずだ。

エントランス内部の様子 写真提供:石津事務所
「男は30歳まで結婚するな」本質を見極めし洒落た人・石津謙介の肖像
ブランド設立からおよそ30年、ベトナム戦争による世界的な反戦ムードと波及するヒッピーブームを受け、次第にVANは舵を切ることになる。謙介氏はVANから離れることとなったが、1970年代後半にはすでにVANのDNAは日本のカルチャーそのものへと深く溶け込んでいた。一企業としての枠組みを超え、アイビーは文化として定着。『POPEYE』の創刊や、『平凡パンチ』編集長である石川次郎氏による『Made in U.S.A catalog』の発刊なども後押し、新たなアイビーの潮流が生まれ80年代にかけ第二次、第三次アイビーブームが巻き起こっていく。
VANを手放すこととなった謙介氏の決断に、自身を含む家族と関係者も大変な思いをしたことは間違いない。しかし、それでも塁氏の記憶の中で、謙介氏個人を悪く言う者は周囲に不思議とほとんどいなかったという。
「その陰で、父である祥介がバランサーとして方々への配慮や甚大な努力があったと思う」
と前置きしつつ、塁氏は謙介氏についてこう振り返る。
「言葉に重みがある人でした。『男は30歳まで結婚するな』。経験値を積んでから本質を見極めろという意味でしょう。『お洒落な人より、洒落た人になれ』というのも、形だけではなく、内面から遊び心が滲み出る人間になれということだと解釈しています」

物事の本質を愛する謙介氏は、時に情熱的だった。中学生の塁氏が「学校でボタンダウンシャツが不良の服だと禁止されている」と話した時のこと。ボタンダウンシャツは本来、ポロ競技で襟が乱れないための実用的な仕様であり、きちんとするための服である。
「祖父は『学校へ話に行こうか?』と即座に応えた。僕はやめてくださいと必死で止めました(笑)。上辺だけのルールを嫌い、本質的ではないことには声を上げる。そんな熱い魅力を持った人でした」

石津事務所の扉には石津謙介氏の千社札を模したステッカーが貼られている。東京・四谷は荒木町周辺に自宅を構え、長年、南青山へ車で通っていた
なぜ青山は「洒落た街」なのか? VANから受け継ぐアイビー精神
石津事務所にはVANの夥しいグッズや資料のほか、年代モノの「アイビーリーグ」のカレッジアイテムもたくさん置かれていた。
現代において、塁氏が提唱するアイビー精神の真髄は「自由は不自由、不自由は自由」という逆説にある。
「昔は、ファッションなんて自由にやればいいじゃん、と気楽に構えていたんですが、父・祥介が亡くなって自分に役割が回ってくると、次第に守るべきものは守らなければという思いが生まれましたね」
ボタンダウンのボタンは外さない、チノパンの丈はこうあるべき。一見すると若者を縛る厳しいルールのようだが、洋装の知識が皆無だった時代には、まず「恥をかかないための基本」を教える必要があったのだ。
「基本(トラッド)を知ってこそ、その上で自由に遊べるようになる。しっかりとした土台を身につけ、あえて不自由さの中に自分なりの遊びを見出す。それこそが不変のファッション哲学なのです」

ルールを知らずに自由を求めるのは、単なるだらしない格好に過ぎない。型があるからこそ、型破りができるというわけだ。
さらに、当時の青山周辺を描いた『VANTOWN(ヴァンタウン)』のマップを見てほしい。青山通りを中心に、VANの関連施設や感度の高いお店が点在し、ひとつの広大な「街」を形成していたのか。このエリアにおいて、VANの存在がどれほど巨大で圧倒的であったかが一目で伝わってくるだろう。

VAN TOWN青山のマップ 画像提供:石津事務所/株式会社ヴァンヂャケット
VANがこの街にもたらした最大の功績は、単なる流行の服を作ったことではない。原宿セントラルアパートに集った気鋭のクリエイターたちに機会を与え、日本のクリエイティブの底上げを担ったこと。そして何より、街を行く人々の「日常の意識」を変えたことだ。ワタリウム美術館の和多利氏が語っていたように、当時はVANのショーウィンドウや広告、街を歩くスタッフの服装を見て「季節の移ろい」を感じていたという。今では当たり前となったブランド戦略だが、50年も前に一企業が、行き交う人々の美意識やライフスタイルを自然と引き上げていたのだ。
この「青山=ファッションとカルチャーが交差する居場所」という強烈な磁場は、その後の街の発展に決定的な影響を与えた。塁氏は、現在の青山が持つ独自の空気感についてこう語る。
「昔から青山は『少しちゃんとした格好をして来る街』という認識がありました。他の街から来た方もそう言う人が多い。アパレルで働く人はもちろん、男女問わず会社員の方の装いも特別感があります」
アイビーファッションを通じて「自由のための不自由(ルールと品格)」を説いたVANの精神は、そのまま青山の「街の秩序と風格」へと結実していったと言えるだろう。一方で、隣接する原宿との対比も非常に興味深い。塁氏は両者の関係性を「因果関係が根深い」としつつ、その極端な違いが街全体の魅力を深めていると分析する。
「原宿と青山は隣合っていながらまるで趣が違う街。2つの街を中和しているのが表参道。表参道によって行き交う人がグラデーションになっている。原宿があるからこそ、青山とお互いに引き立て合っている部分があるのだと思います」
VAN本社を移転する際の書類の一部、候補地を記していたと思われる地図がある。赤い囲みのところが候補地として挙がっていたそうだがよく見ると現在のラフォーレ原宿がすっぽり入る位置。もしかしたら神宮前交差点にVANが建っていたかもしれないことを思うと当時の勢いと影響力の大きさがうかがえる。しかしながら、あの場所にあったからこそVANの価値は最大限に活かされたのである。
ストリートカルチャーの源泉であり、アバンギャルドな実験場としての原宿。一方、伝統を重んじながら秩序や風格を兼ね備え、洗練された青山。そして、その両者をゆるやかに繋ぎグラデーションを生み出す表参道。この絶妙なオモハラエリアのエコシステムと「感性豊かな土壌」があったからこそ、文化的な発信拠点となったベルコモンズの誕生や、ライフスタイルショップ「CIBONE(シボネ)」の出店、青山通りのクラブ文化、そしてワールドやゴールドウインといったアパレル大手の進出へと繋がっていったのだ。これらはVANという巨大な引力がこの街に遺した「余韻」であり、VANが耕した土壌の上に咲いた花であり文化的な実りだと言えるのではないだろうか。
空き地も多かった未開の青山に夢を見た石津謙介氏の精神。それは、時代を超えて「本当の洒落た街」であり続けるための羅針盤として、今も青山の街の底流に静かに息づいている。

【現在の「VAN」と石津事務所について】
本記事に登場する「VAN」ブランドの商標権および現在展開されている株式会社ヴァンヂャケットは、1978年に旧ヴァンヂャケットから事業承継されたものです。現在は石津塁氏および石津事務所が直接的な経営やブランド運営を行っているものではありませんが、石津事務所は、創業者である石津謙介氏が遺したファッション哲学や「アイビー精神」の文化的DNAを次世代へと正しく継承し、ディレクション等を行う独自の活動拠点として存在しています。
なお、本記事の取材・制作にあたっては、石津事務所ならびに株式会社ヴァンヂャケット双方の快い承諾と協力のもとで執筆されています。塁氏は「今後、創業家である石津事務所が、現ヴァンヂャケットと新しい手法で次世代に向けた”何か”が実現できたらと想っている」とも語ってくれました。両者が手を取り合い、再びワクワクするようなカルチャーが発信される未来を、この表参道・原宿の街で楽しみに待ちたいと思います。
OMOHARAREAL編集部
Photo:Takashi Minekura
Photos courtesy of 石津事務所/株式会社 ヴァンヂャケット
Interview & Text:Tomohisa Mochizuki
Edit:OMOHARAREAL編集部



























