明治神宮鎮座から現在まで オモハラ100年の歴史とカルチャーの変遷をまるっとイッキ読みで紐解く!
世界中の有名ブランドが旗艦店を構える、洗練された「表参道」。そして、Kawaii文化やストリートファッションなど、常に最新のポップカルチャーを生み出し続ける「原宿」。全く異なる顔を持つカルチャーが隣り合わせで共存し、そのどちらもが日本を代表するレベルにあるこのエリアは、どのようにして世界有数のカルチャー発信地となったのだろうか。日々、この街の中で取材し、記事を書いていると、その現象は偶然ではなく必然だったことに気付かされる。
静謐な明治神宮の森から始まり、世界のトレンドを牽引する「テーマパーク」のような街へと変貌を遂げた100年。少し長旅になるけれど、お付き合いのほどを!100年の進化を一気に紐解くこのダイジェストさえ読めば、オモハラが現在の姿となった歴史の流れが丸わかり。最後まで読み終えたとき、あなたはもっとこの街に惹かれているはずだ!

目次
・【オモハラの胎動】1600年代〜1900年代 (江戸時代〜昭和初期)
・フェーズ1【誕生と再生】1920s - 1940s:祈りの道と「モダンな都市生活」とローカルの二面性 忍び寄る戦火の足音
・フェーズ2【異文化との交わりと成長】1950s - 1960s:アメリカ文化の流入と、オリンピックによる街の開発
・フェーズ3【カルチャーの爆発と進化】1970s - 1980s:個性豊かなファッション革命と「ホコ天」の狂騒
・フェーズ4【多様化と成熟】1990s - 2000s:裏原宿の世界的隆盛とラグジュアリーの共存
・フェーズ5【共生とさらなる進化】2010s - 2020s:SNSの波、「テーマパーク」化する街の変容
・まとめ:【20XX〜】進化し続ける唯一無二の街「オモハラ」
【オモハラの胎動】1600年代〜1900年代 (江戸時代〜昭和初期)
表参道・原宿の街の歴史を語る前段として、表参道・原宿の近正〜近代史(江戸時代〜明治・大正・昭和初期)を簡単に振り返る。江戸時代初期の原宿周辺、旧・穏田(おんでん:現在の神宮前1丁目、4丁目、5丁目、6丁目にまたがるエリアにわたる)はのどかな農村だった。葛飾北斎の『富嶽三十六景』に描かれた「隠田の水車」の地として有名で、一帯には田園地帯が広がっていたという。

葛飾北斎 冨嶽三十六景 「穏田乃水車」
また、青山は徳川家康の重臣・青山忠成が拝領した下屋敷(現在の梅窓院周辺)が地名の由来であり、時を同じくして広大な武家地が広がっていた。その名残を今は少なくなってしまった表参道の石垣に見ることができる(エルメス表参道の外壁部分)。
華々しいビルボードや近代的なビル群、立ち並ぶブランドショップに行き交う人々の波。現在のオモハラの街とは一転、その昔穏田では水車が回り、静かな田園と農村風景が広がっていたのだ。そして原宿はその名のごとく、“原っぱの中の宿場町”だったらしい。そして青山には荘厳な武家屋敷が広がっていたというのだから、この地に起きた大きな変革と、歴史のロマンを感じずにはいられないだろう。
フェーズ1【誕生と再生】1920s - 1940s:祈りの道と「モダンな都市生活」とローカルの二面性 忍び寄る戦火の足音
ここからが本題。表参道・原宿が街として発展していく原点は、1920年の明治神宮鎮座にある。長い間、静かな田園と武家屋敷が広がっていたこの地に、やがて近代化の波が押し寄せる。のどかな風景を一変させ、この街が「特別な場所」として発展していくターニングポイントとなったのは、ある巨大な「祈りの森」の誕生だった。これこそがオモハラ文化史の誕生記、壮大な第一部の幕開けを告げる出来事だった。

そもそも明治神宮とは、近代日本の基礎を築いた明治天皇と昭憲皇太后を祀る神社であり、日本随一の初詣参拝者数を誇るなど、日本人にとって特別な精神的支柱を担う神社だ。日本の伝統的な信仰では、古来より天皇は古代神話にルーツを持つ神聖な存在とされてきた。「参道(Sando)」とは、その神聖な場所へと続く、参拝者が歩く道を意味する。つまり表参道とは、明治神宮へと続く祈りの道なのである。

神社創建に際しては全国からの献木により、本殿を囲む「明治神宮の森」が作られた。青山方面には武家屋敷の名残りが、原宿は宿場町と田園地帯、そして現在の神宮の森周辺には荒地が広がっていたという。現在明治神宮本殿を取り囲む木々は荒地だった一帯に、100年先を見据えて計画的に植樹されたそうだ。2021年に明治神宮は鎮座100周年を迎えたが、かつて荒地だったことなど想像もつかないほど豊かな森が広がっている。
100年後の未来を信じて木を植えた人々の壮大なビジョンには、ただただ圧倒されるばかりだ。こうして明治神宮の公式な参道として、「表参道」が誕生。周辺地域発展のきっかけとなった。
1920年: 明治神宮創建と表参道(ケヤキ並木)が整備される。
1920年代前半:1924年、現在の場所に原宿駅が移転開業。(初代原宿駅は1906年開業、代々木寄りの場所にあった)洋風の建築を取り入れた木造ハーフティンバーの駅舎が建設された。2020年の改築に至るまで、日本最古の木造駅舎として親しまれる。

2020年撮影 原宿駅旧駅舎最後の日
1920年代後半:1923年(大正12年)に発生した 関東大震災の復興事業として表参道沿いに「同潤会青山アパートメント」が完成。当時の日本では極めて珍しい堅牢な鉄筋コンクリート造りであり、水洗トイレやガス、ダストシュートなどを完備。最先端の設備を備え、見物客が多く訪れるほど東京におけるモダンライフの象徴となる。

1981年撮影 同潤会青山アパートメント 撮影:髙橋義雄
1930年代〈戦前の都市生活とローカルの二面性、戦火の足音〉: ケヤキ並木が美しく育ち、日本初の「風致地区(景観保護エリア)」に指定(※明治神宮の内外苑に通ずる表参道、西参道などの参道とその両側の18mずつ)。同潤会青山アパートがもたらした最先端の「モダンな都市生活」は限定的なもので、路地裏はローカルな生活が主流だったのではないか。表参道・原宿特有の大通りの洗練と、路地裏に残るのどかなローカルのコントラストはこの時代からすでに器として存在していたと言えるかもしれない。
そして、1937年に日中戦争、1939年に第二次世界大戦が勃発するなど、1930年代後半には戦火の足音が聞こえ始める。
1940年代 〈山手空襲と終戦、代々木公園の接収〉: 1945年、第二次世界大戦における東京大空襲により、街の大部分が焼失。5月24日と25日〜26日未明にかけて、麻布・赤坂・青山・表参道一帯は焼夷弾によって火の海となった(山手空襲)。美しいケヤキ並木も無惨な姿となり、焼け残ったのはわずか数本。それこそが耐火性のあった同潤会青山アパート付近に植えられていたもので、今もなお存在し続けている。当時の人々の喪失感は想像を絶するものがあるが、戦後、地元の造園会社と有志によってケヤキの再生事業が行われ、現在の並木の姿を取り戻した。そのたくましさには敬意を抱かずにはいられない。
そして終戦により、隣接する代々木練兵場一帯(現在の代々木公園)は米軍に接収されることとなる。

フェーズ2【異文化との交わりと成長】1950s - 1960s:アメリカ文化の流入と、オリンピックによる街の開発
接収された代々木公園一帯に米軍将校の家族向け宿舎「ワシントンハイツ」が建設され、街は劇的な変化を迎える第二部。焼け跡のすぐそばに突如として現れたフェンスの向こうの豊かな「アメリカ」は、当時の日本の若者たちの目にどのように映ったことだろうか。戦時中には敵であり、街は山手空襲によって甚大な被害を受けた。しかし、戦後の復興において眩しいほどの外国文化のダイレクトな流入(文化的な異種交配)は、感受性が高く多感な、当時の新しい世代の若者たちにとっての“特別な街”というベースを作り上げていく。1950年代〜1960年代は、現在の表参道・原宿における明治神宮のお膝元であるというある種の厳かさ、そこに最先端の異国の空気が絶妙に混じり合い、独自の熱を生んだ。現在も続く「最先端のカルチャー」と「洗練されたラグジュアリー」が共存するその土台を築いた激動の時代と言えるだろう。

現在の代々木公園の場所にあったワシントンハイツ。(Wikipedia 不明 - 毎日新聞社「サン写真新聞(1947年12月11日版)」より。 パブリック・ドメインによる)
〈カルチャーメモ:教会の点在と西洋文化〉
ワシントンハイツが建設されたことで、表参道・原宿にはアメリカ人居住者が増え、西洋のライフスタイルが直輸入された。現在も美しい教会が多く点在するのはこの影響だ。異国情緒漂う外観は街の喧騒の中でも存在感を放ち、象徴的だ。

オモハラエリアの“祈りの場所”を見つめる:OMOHARA TIPS Vol.6 より 写真提供:東京おとなガレージ

【OMOHARAREAL INTRVIEW】 "表参道のヤッコさん"こと日本初のフリースタイリスト・高橋靖子氏が回想。「ゴローズ」オーナーとの思い出も より 撮影:高橋靖子
1950年代〈アメリカンスタイルの店舗が続々誕生〉: 駐留する米軍関係者やその家族に向けた「キデイランド」などがオープン。1953年には日本初のセルフサービス方式スーパー「紀ノ国屋」が開業し、ショッピングカートを押す本場アメリカのライフスタイルが持ち込まれた。街にはいわゆる“アメ車”が多く見られたという。

左:©株式会社キデイランド 1960年代の原宿店/右:2023年4月・編集部撮影
1950年代後半〜1960年代〈セントラルアパートの変貌〉:1958年 「原宿セントラルアパート」が完成。当初は外国人向けの超高級アパートだったが、ワシントンハイツが返還された以降の60年代には、その自由な空気に惹かれた気鋭のクリエイターたちが事務所を構えた。写真家の篠山紀信やコピーライターの糸井重里など、のちの時代を牽引する若き才能たちが夜な夜な集う『クリエイターたちの梁山泊(拠点)』となり、最新のクリエイティブの震源地となった。そこには、新しい時代を自分たちの手で創り上げようとする熱気と、どこかアンダーグラウンドな匂いが入り混じっていたのではないかと想像できる。

オモハラみんなのフォトアルバム No.020 1980年 セントラルアパート 写真提供:東京おとなガレージ
1964年〜1965年〈コープオリンピア〉: 1964年「東京オリンピック」の選手村(現・代々木公園)としての役割を終えた翌年、原宿駅前に日本初の億ション「コープオリンピア」が完成する。半世紀以上が経った現在も、真新しい駅舎や次々と再開発が進む原宿駅前において、昭和モダンの気品を纏う最高峰のヴィンテージマンションとして圧倒的な存在感を放ち続けている。

原宿駅・明治神宮の前、表参道沿いに1965年から存在するコープオリンピア。OMOHARAREAL編集部2016年撮影
フェーズ3【カルチャーの爆発と進化】1970s - 1980s:個性豊かなファッション革命と「ホコ天」の狂騒
明治神宮創建による発展が第一部、戦後の復興と東京オリンピックまでを第二部とするならば、ここから急進的に街の文化が成長していく本項は言わば第三部!アメリカナイズされた最先端の空気を吸い込んで育った若者たちは、やがて「与えられた文化」を消費するだけでなく、自らの手で新しいカルチャーを生み出し始める。マンションの一室から、そして歩行者天国のアスファルトの上から、強烈な自己表現のエネルギーが爆発する時代の幕開けだ。
1960年代後半〜1970年代〈VANの隆盛と青山の洗練〉: 表参道に隣接する青山エリアでは、アイビールックを日本に定着させたアパレルメーカー「VAN(ヴァン)」が本社を構え、若者たちの熱狂的な支持を集めていた。VANの存在により、青山は洗練された大人のファッションの街としてのカラーを確立していく。「VAN 99ホール」など文化施設も周辺に点在し、周辺一帯を「VAN TOWN」と称していた。VAN社員が街を行き交い、服装で季節の変わり目を感じるほどの存在感を放っていたそう(街に「異質な種」を蒔き続ける『ワタリウム美術館』36年目の航海 Part.1〜幼少期の青山/VAN TOWN/オン・サンデーズ編〜 参照)。

1973年頃 VAN本社別館 356ビル 写真提供:石津事務所
1970年〈「MILK」とKawaiiカルチャーの芽吹き〉:一方その頃、原宿ではマンションの一室から一世を風靡し、今なお原宿に店舗を構える「MILK」がオープン。デザイナー・大川ひとみは、ロリータファッションの源流と言われ、1980年代には「DCブランド」の大御所のひとりとして数えられる。資金はなくても「自分の好きな世界」を表現したいという純粋な情熱が、この街の小さな一室で産声を上げたのだ。「MILK」を筆頭にこの頃から、マンションを拠点とする若手クリエイターの「マンションメーカー」が増加していく。これこそが現在も原宿に脈々と流れるD.I.Y.精神の源流とも言えるのではないだろうか。

オモハラみんなのフォトアルバム No.74 1977年 セントラルアパート1Fにあった「BABY FACE」「レオン」「MILK」より 写真手前にMILKの入り口が写っている。奥に長い作りだったようだ 写真提供:髙橋義雄
1970年代前半〈「BIGI」や「コムデギャルソン(COMME des GARÇONS)」、 DCブランドの勃興〉: 多様化していく原宿の熱気は、メンズファッションにも影響を及ぼしている。1970年、菊池武夫らが「BIGI(ビギ)」を設立。続いて1973年にスタートした「MEN'S BIGI(メンズ・ビギ)」は、大人の不良性や色気を漂わせるスタイルで若者たちを熱狂させた。1969年に始動した川久保玲の「コムデギャルソン(COMME des GARÇONS)」も1973年に株式会社を設立。MILKの開業とともに日本における、後述の「DC(Desighners & Characters)ブランド」の事実上の幕開けとして語られている。

「MEN'S BIGI」1981年のコレクションを着用したカット 撮影:操上和美 (OMOHARAREAL INTERVIEW TAKEO KIKUCHIクリエイティブディレクター 菊池武夫 より)
1970年代後半〈ビームス、ラフォーレ原宿の誕生 若者のファッションを牽引〉: 1976年、BEAMSが原宿に6.5坪の1号店「アメリカンライフショップ ビームス」として創業。アメリカ・西海岸のスタイルとカルチャーを発信。

1976年 BEAMS 1号店 【OMOHARAREAL INTERVIEW】BEAMS社長・設楽洋氏が「46年間、ずっとワクワクしている秘密」より 写真提供:BEAMS
さらに1978年、「ラフォーレ原宿」が開業。街の勢いを一気に加速させる。街に散らばる無名の「マンションメーカー」たちを次々とテナントとして誘致し、スポットライトを当て、インディペンデントな才能をファッションの表舞台へと力強く引き上げたのだ。新しい才能に賭けるそのアグレッシブなDNAは現在も色褪せることなく、常に挑戦的な試みでこの街のカルチャーを牽引し続けている。

オモハラみんなのフォトアルバム No.042 1980年・開業2年目の初々しいラフォーレ原宿 写真提供:東京おとなガレージ
1976年にはキース・ヘリングやアンディ・ウォーホルらをいち早く日本に紹介した「ギャルリー・ワタリ(現・ワタリウム美術館)」が誕生し、この街に現代アートの豊かな土壌を育み始めた。
1970年代後半〜80年代前半 〈ホコ天の熱狂と竹の子族・ローラー族〉:同時に表参道(代々木公園の横から続くは、毎週日曜日が「歩行者天国(ホコ天)」となる。この施行の裏には1960年代、週末が暴走族の溜まり場となっていたことも要因のひとつだという。平穏を取り戻すべく施行されたホコ天は、表参道の街を訪れる人々の憩いの場として定着したが、一方で新たな若者のエネルギーを集める場所にもなった。

1979年頃から原宿の「ブティック竹の子」の服を纏った「竹の子族」が出現。革ジャンにリーゼントをシンボルとしたロックンローラーの出で立ちの「ローラー族」など、路上で踊る巨大な自己表現のステージとなったのだ。何者かになりたい若者たちのエネルギーが、毎週アスファルトの上で爆発していた。80年代には竹の子族は野々村真や、哀川翔・柳葉敏朗を擁する「一世風靡セピア」、90年代にはホコ天の路上でライブしていたいわゆる“ホコ天バンド”と言われる「THE BOOM」、「JUN SKY WALKER(S)」ら、多くのスターを輩出することとなる。周辺道路の渋滞緩和や安全上の理由から1998年8月末に惜しまれながらも施行が終了。

1980年代〈御三家とTAKEO KIKUCHI、ファッションの機運高まる〉:「コムデギャルソン」「ヨウジヤマモト」が黒を基調とした前衛的なデザインで世界のモード界に衝撃を与える。全身黒に身を包んだスタイルは「カラス族」と呼ばれた。こうしたデザイナーの個性が際立つ「Designers」と、独自のコンセプトや世界観を持つ「Characters」を総称した『DCブランド』が大ブームに。両者に「イッセイミヤケ」を加えたDCブランド“御三家”に加え、1973年に「MEN’S BIGI」を立ち上げた菊池武夫は1984年に自身の名を冠した「TAKEO KIKUCHI」を設立。育まれた土壌から、才能にあふれ「マンションメーカー」を起源とする日本人デザイナーたちが次々と自身のブランドをスケールさせ世界へはばたいた。1985年、青木正一が海外スナップ誌『STREET』を創刊。全身を同じブランドで揃えるスタイルが主流となっていたDCブームの一方で、同誌はパリやロンドンの若者が、古着などを自由にミックスして楽しむ姿を紹介した。ファッションの多様化の背中を後押しし、表参道・原宿の街全体が巨大なランウェイのように熱を帯びていく。

「コム・デ・ギャルソン」青山店 (2016)「時代をつくる街には“変な空気”が必要だ」ファッションエディター・梶井誠が解説する表参道&原宿の歴史 より
1980年代中盤〈青山の洗練を決定づけた文化発信拠点「スパイラル」の誕生〉:1985年、ファッションの熱狂と時を同じくして、青山エリアの文化的な成熟を象徴する出来事が1985年、建築家・槇文彦の設計による複合文化施設「スパイラル(ワコールアートセンター)」の開業だ。「生活とアートの融合」をテーマに、現代美術の展覧会や演劇、デザインの発信など、洗練されたカルチャーを提示した。のちの表参道・青山エリアの文化発信を支える、大人のための豊かな文化拠点がここに確立された。

1985年の開館当時の外観写真:スパイラルより提供 SPIRAL(スパイラル)|開館40周年!SPIRALに込められた文化への愛のかたち より
1980年代後半〈テレビメディアの熱狂と竹下通り〉: 当時、若者カルチャーに対して絶対的な影響力を持っていたのが「テレビ」だ。その熱狂をダイレクトに反映し、竹下通りにはタレントショップやアイドルグッズの店が次々とオープン。全国から若者が押し寄せるポップカルチャーの聖地として、むせ返るほどに強烈なエネルギーを放つようになった。

1991年11月5日 ビートたけしゲンキハウス 写真提供:河北茂 タレントショップ訪問記(原宿)より
フェーズ4【多様化と成熟】1990s - 2000s:裏原宿の世界的隆盛とラグジュアリーの共存
テレビメディアを巻き込んだ狂騒がメインストリートを席巻する一方で、華々しい「表」に対するカウンター(反骨精神)が、ひっそりと静かな路地裏で産声を上げていた。ここから、世界中のストリートカルチャーに多大な影響を与えることになる「裏」の歴史が動き出す。急成長を遂げた年代を経て、現在へ。ここからはさらなる深みと洗練、そして多様性を街が帯びていく、オモハラ成長譚の第四部だ。
1990年〈現代アートの発信地「ワタリウム美術館」の開館〉: 1976年からこの地に現代アートの種を蒔いてきた「ギャルリー・ワタリ」が、1990年にスイスの建築家マリオ・ボッタの設計により「ワタリウム美術館」として開館。より大規模で国際的な現代アートの拠点として、神宮前〜青山エリアの文化的な土壌がより強固に育まれていく。

1990年7月 ワタリウム美術館外観 写真提供:ワタリウム美術館
1990年代(裏原宿カルチャーの誕生): メインストリートの裏手で「裏原宿(ウラハラ)」ムーブメントが爆発する。看板もないような奥まった路地の小さな店を探し当て、さらには辿り着いてもお目当てのアイテムが買えるかどうかはわからない、宝探しのような高揚感に当時の若者たちは熱狂した。
〈カルチャーメモ:裏原宿とストリートのカリスマたち〉
藤原ヒロシ(“ストリートカルチャーのゴッドファーザー”)や、NIGO®(A BATHING APE®創設者)、高橋盾(UNDERCOVER)といった若きクリエイターたちが牽引。「極少量の限定生産」「新作発売日の大行列」といった、現代の世界的ストリートウェアのシーンを席巻する“Hype(ハイプ)”なビジネスルールの原型は、まさにここで作られた。

「BAPE® STORE 原宿」(2016)「時代をつくる街には“変な空気”が必要だ」ファッションエディター・梶井誠が解説する表参道&原宿の歴史 より 裏路地から世界的なブランドとなって久しい。創設者のNIGO®氏はブランドを売却したのち新たに「HUMAN MADE」を立ち上げ、2025年11月27日に東証グロース市場に新規上場(IPO)した。
1990年代中盤〜2000年代前半〈ストリートスナップの全盛期〉:80年代に『STREET』を創刊した青木正一による、 原宿ファッションに特化したストリートスナップ誌『FRUiTS』が1997年に創刊。2004年にはメンズストリートスナップ誌『TUNE』が登場。雑誌を筆頭に、ストリートスナップが全盛期を迎える。『TUNE』を撮っていたシトウレイのようにストリートスナップを主軸とするフォトグラファーが誕生。一部のトップクリエイターだけでなく、一般の感度の高い若者たちが自らのスタイルを発信し始めた。「ファッションの民主化」が根付き、街角で自己表現の競争が生まれる。彼らこそが、のちのファッションインフルエンサーの先駆けであり、生きた見本となった。

【OMOHARAREAL INTRVIEW】『STREET』『FRUiTS』創刊者・青木正一 より
2000年代前半〜後半〈カリスマ美容師ブーム、表参道ヒルズ開館〉: カリスマ美容師ブームが絶頂に。2006年には同潤会青山アパートメント跡地に表参道ヒルズが誕生。1999年以降、地元振興会(原宿表参道欅会)や行政(渋谷区)による景観を含めたインフラ整備の甲斐もあって、有名建築家による、海外のハイブランド旗艦店が集結していく。メインストリートである表参道の優雅なラグジュアリーと、路地にある原宿・裏原宿のカオス。この強烈な二面性こそが、表参道・原宿を世界でも類を見ない特異な街へと押し上げた要因だ。
2000年代中盤〜後半〈アートとデザインが波及する クリエイティブなフェアが流行〉 :そして2000年代以降、ファッションとアートによって培われたこの街の「感度の高さ」を土壌として、「東京デザイナーズブロック」「東京デザイナーズウィーク」「デザインタイド トーキョー」(2024年に復活)、「青参道アートフェア」、そして現在も続く「デザイナートトーキョー」など、デザインやアートのフェスティバルが街の内外で行われ、街へと波及していく。もとより新しい表現を受け入れる余白を持っていたオモハラの店舗群も門戸を開いて展示会場となり、クリエイターと共鳴。アートやデザインが特設会場の枠を飛び出し、ショッピングや街歩きの延長線として浸透していくことで、街全体のクリエイティブな感度はさらに一段高い次元へと押し上げられたと言えよう。
2000年代後半〈青文字系とデコラ Kawaii文化が原宿から世界へ〉: 80年代から竹下通りを中心に脈々と育まれてきたポップでカラフルな土壌から、原宿独自の「Kawaii」カルチャーが進化を遂げる。他人の目や「モテ」を一切意識せず、自分のためだけに自由に着飾る「デコラ」や「青文字系」といったスタイルが街を席巻。このインディペンデントな自己表現は、やがてASOBI SYSTEMを震源とするきゃりーぱみゅぱみゅらの活躍により、原宿発のネオ「Kawaii」として世界的な共通語となっていった。
OMOHARAREAL INTERVIEW “青文字系カルチャー”生みの親 中川悠介氏が考える「原宿発“Kawaii”」より 写真提供:ASOBI SYSTEM
フェーズ5【共生とさらなる進化】2010s - 2020s:SNSの波、「テーマパーク」化する街の変容
路地裏から生まれた「裏原ムーブメント」の熱狂は海を越え、表通りのハイブランドをも巻き込む世界的なムーブメントへと成長した。そして時代は、紙の雑誌から「手のひらの上のSNS」へと移行する。100年の時を経て現在へ連なる第五部。誰もが情報の発信源となる中、街は未だかつてないスピードと情報発信力、その集積性を持ちながら「歩けるテーマパーク」へと究極の進化を遂げていく。
2010年代 SNS時代への突入とアートの土壌が開花:かつてのテレビや雑誌に代わり、スマートフォンとSNSの普及が街を動かすようになる。個人や企業の情報発信力が爆発的に強まる中、表参道・原宿はこれまで培ってきた街自体の強力なブランド力と発信力が相まって「この街から発信すること」の価値がさらに高まり、世界中の最新カルチャーがダイレクトに集まるハブとなった。
「東京デザイナーズブロック」を筆頭に、無数のクリエイティブフェスが同時多発的に開催された2000年代。街に波及したクリエイティブとデザインのエッセンスは同時に、70年代から育まれてきたアートの土壌と掛け合わさり、開花を促していった。この街のアイデンティティであるストリートカルチャーやファッションの文脈を現代アートへと昇華させた「GALLERY TARGET」、「Gallery COMMON」、「BLOCK HOUSE」そして若手クリエイターの登竜門としてファッションとアートを交差させた「OMOTESANDO ROCKET」などが存在感をさらに強めた。その一方で、ロサンゼルス発の世界的なギャラリー「Blum & Poe(現・Blum)※ギャラリーは閉業」が明治神宮の森を望む神宮前に進出し、表参道には美術館クラスの展示を入場無料で提供する「エスパス ルイ・ヴィトン東京」が2011年に誕生。さらに「GYRE GALLERY」や「MAKI GALLERY」、「MAHO KUBOTA GALLERY」など、コンセプチュアルで本格的なファインアートを紹介する拠点も増加した。六本木でも銀座でもなく、若者たちのインディペンデントな熱気と、世界基準の現代アートがシームレスに混ざり合う、世界でも類を見ない特異なアートエリアとしての成熟を迎えた。

【OMOHARAREAL INTERVIEW】『STUDIO VOICE』『BRUTUS』雑誌デザイン界の父・藤本やすしが明かす、原宿セントラルアパートの伝説、同潤会青山アパートの秘話
2020年代(そして現在): アート、デザイン、ファッション、クリエイティブ、これまでこの街で培われてきた分野が共生し、鎮座100年を越えた明治神宮の森を抱くこのエリアは、世界的ブランドの旗艦店や体験型ポップアップストアが密集する場所になった。街の至るところでイベントが行われ、最新の商品や広告がほぼ毎日更新されている。コロナ禍を経て、インバウンドも多く訪れる人気の観光地として親しまれるようにもなった。まさに、飛び交う最新情報をフィジカルで体験する万博さながらの“巨大なパビリオン”あるいは「テーマパーク」のような熱を帯びる街へと進化している。
2026年3月14日(土)に原宿クエストにオープンした最新施設「THE HALL / THE TUNNEL」。大胆かつ先鋭的な空間が今後どのようなクリエイティブ体験をもたらし、街を盛り上げてくれるのか。期待が高まる
まとめ:【20XX〜】進化し続ける唯一無二の街「オモハラ」
現在に至るまでの100年にわたる膨大なトピックを、それでも極力かいつまんで書き連ねてきた。100年という途方もない時間を辿り、この街がいかに隣り合わせの異質な文化を飲み込み、進化してきたか。その全体像がなんとなく見えてきただろう。では、結局のところ「表参道・原宿の本当の凄み」とは一体何なのか?そしてこの街がなぜ世界中から愛され続けるのか、その「最大の理由」だけをギュッと総括して締めくくろう。極論、ここから先を押さえておけば、オモハラの魅力の真髄が掴めるはずだ!

1920年代、明治神宮の鎮座とともに誕生した厳かな「祈りの道」と同潤会青山アパートに代表される「モダンな都市生活」が街に出現。しかし、それは一部の特権階級に向けた限定的なもので、一歩路地に入ればそこにはまだ昔ながらのローカルな生活があったはず。「洗練されたメインストリート」と「素朴な路地裏」というコントラストを持った街の輪郭がすでにできていたのではないかと推測する。そこへ戦後、復興のタイミングでワシントンハイツを通じて自由で豊かな「アメリカ文化」がダイレクトに流入したのが40年代〜50年代。明治神宮の神聖な格式と、異国文化の自由な魅力。この相反する要素が、絶妙なタイミングとバランスの運命的な巡り合わせによって、この街の未来を決定づけていたと言える。どちらか一つが欠けても、今のオモハラは成り立たなかっただろう。
60年代〜70年代にはそこへ感度の高い若者やクリエイターたちが創造的な熱気を街に運び込み、マンションの一室から独自のカルチャーを芽生えさせた。80年代にはDCブランドの世界的躍進がファッションの街としてのイメージを決定づけ、一方でホコ天の狂騒やタレントショップの存在はポップカルチャーの集積地であることを示した。90年代〜00年代には「マンションメーカー」や連綿と続くDCブランドブームのD.I.Y.精神を引き継いだ「裏原宿ムーブメント」が路地裏から世界的ムーブメントを起こす。多様なファッションで盛り上がる街をステージに、ストリートスナップの熱狂は自己表現の競争を生み、ファッションの多様化と民主化を強力に推し進める。
さらに街が持ち合わせていた感度と掛け合わさり、デザインやアートも街全体に波及。2010年代以降はSNSの波に乗って街自体が協力な情報発信力を持つようになった。その発信力に惹きつけられるように、現在では最先端のショップにとどまらず、月替わり、週替わりでポップアップが次々に行われ、最新の商品と広告が集まっている。そしてアート・デザイン・ラグジュアリー・ストリート、といった多様な分野のカルチャーが共生し、体験を伴う街の様相はまさに「テーマパーク」のような街として成熟を迎えている。

ではまとめに入ろう。繰り返しになるが、重要なのは明治神宮による「神聖」な厳かさとワシントンハイツがもたらした「自由」な豊かさが絶妙なタイミングとバランスによって成り立っているということ。深い祈りの森と、最先端の情報が交差する表参道・原宿という街の100年の変遷を辿って見えてきたこの街の凄みは、全く異なる要素が互いを排除することなく、見事に共存・共生している点にある。
大通りから一本路地に入るだけで、世界的ブランドや現代アートが立ち並ぶ「ハイセンスで洗練された感性」と、若者たちのエネルギーが爆発する「インディペンデントなD.I.Y.精神」が、シームレスなグラデーションを描きながら溶け合っているのだ。しかも、そのどちらもが世界的な熱狂を生むほど、極めて高いレベルで成立している。 冒頭に述べた通り、この街が歩んできた軌跡を改めて振り返ると、その進化は偶然ではなく必然だったことに気づかされるというわけだ。

2026年1月30日(金)~2月1日(日)まで行われた「adidas Originals(アディダス オリジナルス)」 による新製品のポップアップイベント「ADISTARIUM(アディスタリウム)」
しかし、このカオスと洗練が共存する魅力的な街並みは、ただ自然的に発生したわけではない。忘れてはならないのは、原宿表参道欅会をはじめとする地元の商店会、そして何より戦後の絶望から復興を成し遂げた地域住民たちが、長年にわたって街の景観と、その誇りを美しく保ち続けてきたということ。ケヤキ並木、そして街とともに育まれた地域ぐるみの「高い意識」と「実質的な整備」の賜物があったからこそ、ということも言及しておきたい。

100年分の熱量が幾重にも重なったこの分厚い地層の上を、今日も世界中から訪れる人々が歩き、また新たなカルチャーの種を落としていく。決して過去の栄光に停滞することなく、常に変化と進化を楽しみ続けること。それこそが表参道・原宿の最大の魅力だ。10年後に訪れたときには、きっと今とはまた違った新しい景色が広がり、訪れる人々を大いに楽しませてくれることだろう。
さて、現時点では次の100年など想像もつかないけれど、この街がどんな進化の軌跡を描いていくのか、これからも目が離せない。まずはこの記事のダイジェストを片手に、表参道・原宿の進化の変遷を噛み締め、味わいながら、最新の街をあなた自身で体感してみてほしい。

Edit:OMOHARAREAL編集部



























