全ての始まりは、原宿に存在した”小さなアメリカ”?
編集部はまず、オモハラエリアの文化の成り立ちに着目した。
1950年代、オモハラの街は外国人の街だった。というのも、東京オリンピックが行われた1964年に、オリンピック選手村として解放され、利用されるまで代々木公園一帯は「ワシントンハイツ」と呼ばれるアメリカ軍の居留地であったことはご存じの人も多いだろう。

現在の代々木公園の場所にあったワシントンハイツ。(Wikipedia 不明 - 毎日新聞社「サン写真新聞(1947年12月11日版)」WIKIMEDIA COMMONS パブリック・ドメイン)
終戦からおよそ20年(1946-1964年)に渡って存在していたワシントンハイツの影響で、表参道・原宿の街もまたアメリカ人向けの店が多く建ち並び、表参道にはキャデラックなどのアメ車が今よりもズラリと並んでいたそうだ。
ルートインやダイナー、海外向けのスーパー、高級テーラーがあり、キディランドや紀伊國屋、オリエンタルバザーなど、駐留するアメリカ人に向けたお土産や食料品を扱っていた。その様相から当時は“リトルアメリカ”と呼ばれたほど。オモハラの街にはこのような歴史的背景がある。

1960年代、現在も表参道に店を構える骨董・美術品店の「富士鳥居」。鳥居に富士山、英語表記の看板など外国人向けの店だったことが分かる(オモハラみんなのフォトアルバム No.004)
50年代にアメリカの軍関係者の街だったことから、そのカルチャーが色濃く反映された街は、日本の尖った感性を持つ若者たちの関心を集めた。
1964年のオリンピック以降、アメリカの文化を独自に取り入れた一歩先を行く感性の土壌に若者の熱気が流れ込み、さまざまなムーブメントが巻き起こる。
アメリカの文化を受け入れ(占領下では受け入れざるを得なかったとも言えるが)柔軟に発展してきたこの街は、そこに集まる若者たちの熱気をも寛容に包み込み、その存在感を確立する。

1978年の神宮前交差点。若者たちが集まる姿が映し出される。当時の熱気やにぎわいが伝わってくる写真だ。セントラルアパートの向かい、ラフォーレはまだ建設中。「オモハラみんなのフォトアルバム No.54」撮影:大西忠保 CAC(Commons Archive Collective)©
新しいものに寛容な土壌は、アメリカンカルチャーへのいち早い嗅覚、相反するカウンター精神を併せ持っていた若者たちの感性とも融合し、70年代から80年代にかけ、ローラー族や竹の子族を生んだ。独自のファッションとともに奇抜なヘアスタイルで自分たちを表現する若者の爆発的なエネルギーが原宿に集まったのだ。ヘアスタイルもファッション同様に、表現の一部としてともに進化し、加速していく。
>>Page 3 個性が加速していく オモハラファッション & ヘアスタイル 黎明期

























