“青春の街”原宿で制服少女を撮ったワケ
最初の写真集のデザインは、当時東郷会館の先にあったタイクーングラフィックスでした。ラフォーレをはじめ多くの広告をコラボした藤本やすしさんは、CAPというデザイン事務所を表参道に構え、雑誌「DUNE」やレコードジャケットを担当してくれた中島英樹さんは、渋谷駅近くに事務所がありました。原宿はそんなカルチャーの中心でした。
神宮前コーポラスは、ファッション業界人が集まる原宿アパートメントが取り壊された後、多くのクリエイターが住んだ業界人が集まった雰囲気あるマンションでした。
地下には古着屋さんのDEPTがあり、私の服は友人のデザイナーが手掛けるブランドと古着のミックススタイルでした。雑誌もコムデギャルソンなどのデザイナーブランドが古着とミックスするスタイルを打ち出し、新しいミュージシャンの音楽とも合わさり、DJ文化やスケーターなど新しいカルチャーが生まれてくるのをずっと撮影していました。
原宿ブームが落ち着き、代官山に居を移しましたが、原宿の魅力が忘れられず、結婚を機に再び駅前の原宿アパートメントに戻ってきました。明治神宮でよく撮影した夫婦楠木の前で式を挙げました。同じくクリエイターであった新しいパートナーに、私が憧れた原宿を見せたい気持ちもあり、原宿第一マンションに住み、隣の原宿アパートメントに事務所を構えたのです。
それらは今、駅前のユニクロに姿を変えています。私の第二の原宿時代です。息子が生まれたのもこの頃です。
その頃の仕事は、ティーンのファッション雑誌を抱えていて、原宿の駅前ということもあり、芸能事務所のオーディションが多くなってきました。制服でオーディションに現れる少女モデルたちを作品化し、青春という当時口にするのも恥ずかしいタイトルをつけた写真集「青春トーキョースクールガール」を2004年に刊行しました。
アートディレクター・中島英樹さんのデザインです。新しい原宿カルチャーは制服の少女のポートレート、若さを謳歌するファッションモデルたちやタレント予備軍の写真集でした。
2004年当時、ブルー調に少女をまとめた写真はこれが初めてで、色調は“モトユキブルー”と呼ばれた。
世間ではいじめが社会問題になっていて写真集に登場する少女たちには、いじめに苦しむ人もいました。私はいじめ社会へのアンチテーゼとして、幸せな笑顔のポートレートを撮影しました。
それは、原宿という街に来て青春を謳歌する女神たちの様でした。街並みは写っていませんが、仕事も遊びも、原宿は彼女たちの生活の中心であり、青春を体現する場所でした。
制服姿の彼女たちを撮影した着想の根底には、私が尊敬するアメリカの写真家、リチャード・アベドンによる、ベトナム戦争後の寂れた炭鉱街のポートレート写真集があります。もし今、アベドンが原宿駅前のマンションにスタジオを構えたなら、どんな作品を撮るだろうと考えました。
2000年代の明治神宮前駅前の様子。仕事で一緒だったという外国人モデルさんを後日、原宿の街中で撮影した。
原宿アパートメントが壊され、ユニクロに建て替えられるまで、原宿の駅前に住み、原宿という街は私の作品と共にあるものでした。
ある日、レスリー・キーという写真家からモデル撮影の依頼が届きました。私が撮影される側で、日本人写真家のヌードを集めたシリーズでした。撮影されることには慣れていましたが、それが展示されることには慣れていませんでした。2006年。できたばかりの表参道ヒルズには、大きく引き伸ばされた私の全身ヌードがそこにありました。
写真集にも収まっていますが、いつもの生活空間にそびえ立つ私のモノクロヌード作品。レスリーさんのそのポートレートは、当時、原宿に住む私の全てを写し込んでいるように思えました。
山口小夜子さんとの出会い。原宿のスタジオに遊びに来るモデルたちの笑顔。原宿という街に生きて、作品を作ってきました。
その歴史は色褪せません。
誰しも思い出の街があると思います。原宿での生活は、私の青春そのものでした。たまに原宿を訪れると、この街に住んでいた記憶が蘇ります。あまり風景は変わりません。ファッションも当時に回帰しているようにも見えます。住む人は変わりましたが、この街は変わらないのです。
原宿は世界から注目される、たくさんのカルチャー、クリエイターを育む街。訪れる人の全てを青春に引き込む街なのです。
©コバヤシモトユキ 神宮前コーポラス 6F ベランダ。小林さん曰く「タバコを吸わない私に煙がかからないように笑っている姿」(1990年代)。
Photo & Text:Motoyuki Kobayashi
