
【私の原宿】スクールガールブームの立役者 写真家・小林幹幸が語る原宿物語 青春の街・原宿にて、伝説のモデル・山口小夜子さんとの思い出
アーティスト撮影(トップ画像):©森英昭
小林幹幸(コバヤシモトユキ)
1963年生まれ。歴史フォトグラファー・写真家・映画監督。1990年代から、日本人モデルブーム、2000年、スクールガールブームを作った第一人者。主な作品に『トーキョー・ポートフォリオ』(1995)、写真集『TOKYO MODELS』(1996)がある。監督作品「東京シャッターガール」(2013)は東京都写真美術館ほかで上映。ハンブルグ国際映画祭招待作品となった。2002年スクールガールプロジェクトとして累計7冊の写真集を刊行し2007年、NYのトップエージェンシーART+COMMERCEより世界の13人の写真家に選出される。その他AKB48のDVDジャケット「AKBがいっぱい」(2011)の広告写真を手掛けるなどエンタメ、ファッション分野で広く活躍。2025年、休止していたフォトワークショップを「天才写真塾」として再開した。2025年8月、「邪馬台国」をテーマにした写真展と書籍『邪馬台国に行きましょう』が発売予定。
僕の原宿物語
©コバヤシモトユキ 山口小夜子さん。神宮前コーポラス6階ベランダより。1〜2年前、小林さんが実家を整理している際に発見したネガに収められていた。(1990年代)
最近、よく90年代のファッションカルチャーについて教えてくださいと連絡が来ます。特に渋谷や原宿では、サブカルチャー雑誌「IN NATURAL」を4年間、表紙や巻頭で担当していたこともあり、原宿や渋谷には深い縁があります。とりわけ、原宿、神宮前は自分が住んでいた街ということもあり、愛着が深いのです。
原宿に住んだのは、合計で22年間にもなります。最初は1993年から1999年までで、手狭になったため代官山に移りましたが、結婚を機に再び原宿に戻り、2002年からまた住み始めました。新居として原宿駅前の原宿第一マンションに住み、隣の原宿アパートメントに写真事務所を構えていました。
埼玉県で育った自分にとって、原宿という街はフォトグラファーの夢を叶えられる夢のワンダーランドでした。
街を歩けば、知り合いのスタイリストやモデルさんに会います。いつの時代も原宿はカルチャーの中心地でした。ここに住むことで、ファッション界での成功の切符を手に入れたような気がしました。
初めて原宿を訪れたのは、1979年だったと思います。高校2年生、16歳のときです。ジョンレノンが暗殺される前の年でした。写真を始めたばかりの私は、日曜日になると竹の子族を撮りに歩行者天国へ行き、仲間と話をしたり、写真を撮ったりしていました。そんな都会に憧れる写真少年でした。
夏休みのある日、歩行者天国から帰る途中で雷が響きわたりました。
肌を刺すような雨。お金もなかった私は、喫茶店の軒先で豪雨が止むのを待っていました。
すると夕焼けの中、雨が止み、雨に濡れた路地はライトを反射してキラキラと輝いていました。あのときの感動は忘れられません。
キディーランドの横にペニーレーンというカフェがありました。中に入るお金もない私は、雨の後に煌めく街をスナップしました。いつか成功したらこの街に住みたいと願う、埼玉の写真が好きな高校生でした。
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