カルチャーとは無縁だった表参道に、最先端のアパートメントが誕生?
なぜそれほど古い建物が人々に愛され続けたのか。同潤会青山アパートメントの歴史は1923年(大正12年)に日本を揺るがせた出来事に端を発する。
関東大震災。南関東を中心に甚大な被害をもたらした大地震で、推定死傷者は10万人以上にものぼるといわれる、明治以降の日本の地震被害として最大の災害だ。特に東京の被害は大きく、多くの家屋が瓦礫の山と化した。
そのため、政府は東京の復興支援を積極的に行った。そこで関東大震災の義援金を元に、内務省によって立ち上げられたのが「同潤会」だ。関東大震災では木造建築の密集していた下町に被害が集中したため、耐震耐火に優れた鉄筋コンクリート造りの住宅を建設するプロジェクトが大きく掲げられた。
そして、交通の便のよい都内と横浜の16箇所に建設された同潤会アパートメントの一つが、現在表参道ヒルズの建つ敷地に建てられていた同潤会青山アパートメントだ。
昭和初期の旧同潤会青山アパートメント。凹凸ある鉄筋コンクリート造りの重厚なルックスが目を惹く。
写真:Wikipedia
当時は、いまのような華やかなファッション街ではなく、武家屋敷が並び江戸の名残が残るゆったりとした地域だった表参道(地名も "穏田"と、その名の通りとても穏やかなところだった。穏田地区についてはOMOHARAREALの「キャットストリート」について書かれた記事が詳しい)。
最先端の集合住宅に、最初に住み始めたのは役人や軍人、教授など一部の特権的な人だった。今でこそ鉄筋コンクリート造りの建物は珍しくないが、建築当時はまだ大正時代。欧米のアパートメントを元に設計された鉄筋コンクリート造り3階建て10棟の建物群は当然のように話題となった。
2002年12月に撮影された同潤会青山アパートメント。およそ80年経っても当時の面影がそのまま保たれ、街に溶け込んでいることが分かる。建設当時はかなり斬新な印象だったに違いない。禁転載
物珍しい外観はもちろんのこと、最新の設備を備えていたことも注目される理由だった。木造の長屋が一般的だった大正時代当時に、水道、ガス、電気などインフラを完備し、各住戸に水洗便所,台所はダストシュート付きキッチンなど、先進的な住まいを実現した同潤会青山アパートメントは、都会的な新しい暮らしのスタイルとして人々の憧れの対象だった。話題の高級アパートメントを一目見ようと、わざわざ観光バスが立ち寄ったそうだ。
しかしその後、東京は再び悲劇に見舞われる。第二次世界大戦末期の東京大空襲だ。多大な被害をこうむり、表参道のケヤキ並木もほとんどが焼失した。同潤会青山アパートメントの正面に植えられた数本のケヤキを除いて。
1950年代(昭和中期)第二次世界大戦後の明治神宮に伸びる表参道沿い。右側が旧同潤会青山アパートメント。1945年の東京大空襲の影響もあり、現在の様子とは全く様子が異なる。
写真:【STREET】表参道
関東大震災の被害を元に設計された耐震耐火に優れたアパートメントは、アメリカ軍の爆撃に耐え抜いただけでなく、ケヤキの命まで救ったのだ。現存するケヤキのほとんどは戦後に植え直されたものだが、表参道ヒルズ前の数本は戦前からの歴史をいまも伝える貴重な存在ということになる。
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