「アメリカ」という光
現在の代々木公園、国立代々木競技場、NHK放送センターの92.4万平米にも及ぶ一帯は、戦後、アメリカ空軍とその家族のための居住宿舎地区であった。ワシントンハイツ。名前だけは聞いたことがあるかもしれない。大空襲で無残な廃墟と化した原宿の大地に、アメリカの近代的な住宅群が、突如、その姿を現した。
原宿の土地に存在した広大な米軍の住宅群「ワシントンハイツ」
出典:東京街歩き
絵に描いたような真っ白な夢の国。周囲はフェンスで囲われ、無論、日本人の立ち入りは禁じられていた。焼け焦げた土のうえのバラックと、壁一枚隔てたアメリカンドリーム。影と光。豊かさの痛烈なコントラスト。まっさらなスクリーン同然だった当時の原宿にとって、そんな鮮やかなアメリカ文化に「かぶれる」ことは余りにも容易なことであった。今もなお、原宿ファッションのひとつとして根強い人気を誇るアメリカンカジュアル。そのはじまりは、憧れ、怒り、嫉妬、さまざまな感情が複雑に渦を成すカオスに端を発していた。一方、そんな大人たちのいざこざをよそに、子どもたちは純粋に刺激的な毎日を楽しんでいた。1960年代初め。ワシントンハイツの敷地内に広大なスペースがあることに感づいていた少年たちは、塀を乗り越え、自由気ままに野球をしていたらしい。そんなある日、彼らに声をかけてきた日系二世のアメリカ人がいた。野球のコーチをしたいというのだ。約30人の少年たちが集められ、その男の指導の下、少年野球団が結成される。その名は「ジャニーズ少年野球団」。そう、その男こそ、あのジャニー喜多川であった。アメカジとアイドル。現在の原宿カルチャーの輪郭が、ぼんやりと見えてきたのではないだろうか。
1980年、原宿に登場した「ローラー族」。現在も代々木公園入り口で見られることがある
その後も原宿は、1978年のラフォーレ原宿開店を筆頭に、創刊されたばかりの「anan」や「non-no」に取り上げられながら、ファッションの発信地としての地位を確立。また、「竹の子族」や「ローラー族」など、独自のエンターテインメントを醸成していくことになる。ここでひとつの疑問が湧いてくる。なぜ、この原宿に隣接する形で、全く異なる性格を持った街「表参道」が存在しているのだろうか。